佐野元春と黄金の6年間 - それは日本のエンタメの原点であり、未来でもある。  佐野元春が生み出した、日本のロックの新しいスタンダード!

日本のロック界に “新たなスタンダード” を生み出した佐野元春

お笑いの世界に「ダウンタウン以降」という言葉がある。

ダウンタウン以前、テレビで見る芸人たちの笑いは、“キャラクター” や “ギャグ” などの個人芸が中心だった。それゆえ、彼らが活躍できる番組も、狭義のバラエティ(お笑い)番組に限られていた。例外として、フリートークに長けた “ビッグ3”(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)がいたが、彼らの芸は真似できるものではなく、ある意味、孤高の存在だった。

それがダウンタウンの登場以降、言葉のセンスを競う“大喜利”的笑いが、お笑い界のスタンダードになった。その結果、才能ある若手芸人たちが数多く誕生し、彼らの活躍の場も格段に増えたのである。

お笑い評論家のラリー遠田さん曰く、

「現代のバラエティ番組の最前線にいるような芸人たちは、ほぼ例外なくアドリブ能力が高く、1つ1つのやり取りの中で即興で話にオチをつけて笑いを生み出すことができる者ばかりである。逆に言うと、その能力がなければ生き残れない時代になった」
(『お笑い世代論~ドリフから霜降り明星まで~』 光文社新書)

そう、ダウンダウンの何が偉大って、その個人的才能もさることながら、お笑い界に“言葉のセンスで笑わせる”概念を持ち込み、それをスタンダードにしたこと。今や芸人たちはあらゆるジャンルの番組に進出し、彼らはアドリブで場を盛り上げてくれるので、大変重宝されている。

さて、ここからが本題である。

同じロジック(論法)で――僕は、音楽の“ロック”の世界にも、「佐野元春以降」という言葉を唱えたい。そう、佐野元春以降――。

それは、彼の登場が、単なる一人の才能あるロックミュージシャンやソングライターのブレイクに止まらず、その音楽スタイルが後世に大きな影響を与えたことから、日本のロック界に “新たなスタンダード” を生み出したという意味合いである。

“佐野元春以降” の分岐点、アルバム「SOMEDAY」

具体的には、疾走するビート感と都会的な歌詞、それにポップなメロディ――。マーケティング的に言えば、それまで、例えば“革ジャンにリーゼント”といった風に、聴く人間を選んでいたロックを、広く大衆に開放して共感できる音楽に変えたことである。その背景には、若い世代からの圧倒的な支持があった。

その分岐点が、今から40年前の1982年5月21日にリリースされた、佐野元春3枚目のオリジナルアルバム『SOMEDAY』である。

僕は、1978年から83年に至る6年間を、音楽を始め、映画やテレビや文学や広告など、様々なエンタメのジャンルが垣根を越えて交わり、新しい才能が爆誕した「黄金の6年間」と呼んでいる。1975年にベトナム戦争が終わり、アメリカに戻った元軍人の若者たちは、心の傷を癒すために太陽のもとで体を動かして、西海岸にアウトドアスポーツが花開いた。ラブ&ピースは役割を終え、アメリカンニューシネマも退潮。代わって、『ロッキー』や『スター・ウォーズ』に代表される古き良きハリウッド映画が復興した。

日本において、そんな西海岸の風をいち早く察知したのが、平凡出版(現・マガジンハウス)の編集者、木滑良久さんだった。彼は76年、「POPEYE」を創刊。それを機に日本の若者たちの目もパリから西海岸へ移り、黄金の6年間が幕明ける。それはカオスな6年間だった。旧来の権威が力を落とした結果、クロスオーバーから新しい才能が芽吹いた。メインステージである東京は、最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった。

そんな黄金の6年間―― まるで時代の申し子のように、佐野元春サンも運命的な軌跡を見せる。結論から言えば、その終着点がサードアルバムの『SOMEDAY』だった。

佐野元春にも符合する「黄金の6年間」

まず、黄金の6年間の起点となる1978年、大学4年となった元春サンは卒業のメドもついたことから、在学中でありながら、なんと広告制作会社に就職する。思えば、黄金の6年間は広告の時代でもあった。コピーライターの糸井重里サンは時代の寵児となり、デビューしたばかりの村上春樹サンは文壇を嫌って広告業界と懇意にし、ホイチョイ・プロダクションズは広告業界を描いた漫画『気まぐれコンセプト』でデビューした。

翌79年、元春サンは自ら企画書を書いて、アメリカ西海岸のFMステーション事情の取材のために渡米する。ちなみに、当リマインダーに伊藤銀次サンが元春サンのツアーに同行した時代の回想話を記している中に、「SOMEDAY」が始まる前のMCとして、この西海岸の旅行中に知り合ったミュージシャンの話が出てくる(『伊藤銀次が語る「サムデイ」制作秘話、佐野元春のMCにじんじんきてた理由』を参照)。その男は自身の夢を叶えるために、元春サンに“これからニューヨークへ向かう”と告げる。銀次サン曰く、その話を元春サンはこう結んだという。

「みんなもきっと “いつか” って思うことがあると思うんだ。そんな気持ちを歌にしました。そのタイトルは… SOMEDAY!!」

この取材旅行は、元春サン自身にも色々と刺激を与えたらしい。しかも、その中のエピソードの1つは、のちの『SOMEDAY』に結び付いている。元々、元春サンはプロミュージシャンになる気などなかったが、帰国後、間もなく会社に辞表を書いて、旅行前からオファーが来ていたEPIC・ソニーと契約する。

佐野元春とEPIC・ソニーをつないだものは?

なぜ、一介の広告制作会社の社員に、メジャーレーベルが接触してきたのか。答えはカセットテープだった。当時、元春サンはガールフレンドにプレゼントするために、街のスタジオで自作の曲を演奏・録音して、13、4曲入りのデモテープに仕上げたところ、スタジオエンジニアが気に入り、ダビングして業界関係者に配っていたという。そのうちの1本が回りまわって、EPIC・ソニーに届いたのだ。収録曲の中に、のちの「アンジェリーナ」の原曲もあった。

1980年2月―― 元春サンはレコーディングに入る。この時、EPICから紹介されたアレンジャーが、伊藤銀次サンと大村雅朗サンだった。まだ、元春サン自身にスタジオミュージシャンらをディレクションする能力はなく、さりとて新しいロックを作りたい思いは人一倍強く、現場で調整するお二人は、気苦労が絶えなかったとか。同年3月21日、デビューシングル「アンジェリーナ」発売。だが―― 今では信じられないが、絶望的に売れなかった。

続いて、同年4月21日にファーストアルバム『BACK TO THE STREET』をリリース。そして10月21日にはセカンドシングル「ガラスのジェネレーション」を、翌81年2月25日にはセカンドアルバム『Heart Beat』を発表するも―― ここまで、セールス的には惨憺たる結果に終わる。元春サンが目指していたのは、既存の価値観に縛られない “新しいリスナー” のための音楽だった。ライブにおける十代の彼らの反応はよかったが、なぜか販売に結び付かなかった。

訪れた転機、大滝詠一との出会いとサウンドストリートDJ就任

結果の出ない日々に、次第に元春サンは追い詰められていった。だが、黄金の6年間は、この才気あふれるロックミュージシャンを簡単には手放さない。その音楽人生に多大な影響を及ぼす2つのサプライズを用意する。1つは、伊藤銀次サンに誘われ、見学させてもらった、大滝詠一サンの『A LONG VACATION』のレコーディング風景である。六本木のソニースタジオだった。ここで、元春サンはその目で “ウォール・オブ・サウンド” を目撃する。

もう1つは、後に“元春レイディオショー”と称してライフワークと化す、NHK-FMの『サウンドストリート』の月曜日担当DJへの就任だ。ここで、初めて全国のリスナーに元春サンの独特の語りが届いた。当時、深夜放送のDJと言えば、フランクなトークと、ノープランの曲紹介が当たり前だったところに、元春サンは “レス・トーク、モア・ミュージック” を掲げ、真面目に、理詰めで曲紹介を行い、お気に入りのロックンロールをかけまくった。

大滝サンに啓発された “ウォール・オブ・サウンド” は、次のシングル「SOMEDAY」に生かされた。また、ラジオの真摯な語りは、全国のファンへ向けた、ある種の布教活動のように、音楽好きの彼らの思いを “深化” させていった。

2つのサプライズは、すぐには、セールス面の変化を生まなかった。1981年6月21日に発売された4thシングルの「SOMEDAY」は、その高いクオリティに元春サン自身も大いに満足するが、TOP100入りすることはなかった。あとは、ほんの少し、売れるための何かキッカケがあればよかった。

追い風になった「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」への参加

同年7月、その時がやってきた。
大滝詠一御大からの『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』へのお誘いである。

それは、新宿・ルイードで行われた、レコード会社の枠を超えて新人4人を売り出すためのライブ『JAPACON』(ジャパン・コンテンポラリー・サウンド・コンサート)の場で発表された。元春サンは同年デビューの杉真理サンらと共にそこにいた。同ライブの最終日、ステージに上がったゲストの大滝サンは、観客やレコード会社のスタッフらを前に、突如、『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』の構想を語り始める。

「ひとりは杉くんで行こうと思ってるんだけど、どうだい?」
「やります」
「もうひとりも、ちょうどここに来ている。佐野くん、どうだい?」
「やります」

―― 即決だった。翌1982年3月21日、同盤リリース。前年秋に先行シングルとして出したリード曲の「A面で恋をして」のヒット効果もあり、オリコン最高2位、50万枚近いセールスの大ヒット。“リヴァプール・サウンド” をモチーフに、3人の個性も見える洗練された企画アルバムだった。

『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』の成功は、元春サンにとって着実に追い風になった。ようやく世間が “佐野元春” という存在に気付いた瞬間でもあった。そのリリースから2ヶ月後、今日で言う “初期三部作” の3作目、アルバム『SOMEDAY』が満を持して発売される――。それは、『A LONG VACATION』の影響を受け、レコーディング・エンジニアに吉野金次サンを迎えた、全編 “ウォール・オブ・サウンド” で仕上げられた逸品。結果は―― オリコン4位の大ヒット。

そこにいた、佐野元春が追い求めた“新しいリスナー”

 街の唄が聴こえてきて
 真夜中に恋を抱きしめたあの頃
 踊り続けていた
 夜のフラッシュライト浴びながら
 時の流れも感じないまま

ようやく佐野元春は売れた。ここへ来て、やっと時代と噛み合った。疾走するビート感、都会的な歌詞、ポップなメロディ―― それは十代の若者たちに、男女の区別なく圧倒的に支持された。それまでの客を選ぶロックと違い、普遍性があった。元春サンがかねてより追い求めてきた、既存の価値観に縛られない “新しいリスナー” がそこにいた。

 窓辺にもたれ
 夢のひとつひとつを
 消してゆくのはつらいけど
 若すぎて何だか
 解らなかったことが
 リアルに感じてしまうこの頃さ

この間、ツアーは軒並みソールドアウト。1982年は、年始から『Welcome to the Heartland Tour』を全41公演。7月に一旦終えるも、2ヵ月後の9月からは『Rock & Roll Night Tour』が全53公演。その最終公演が、翌83年3月18日の中野サンプラザだった。このステージ上で元春サンは突如、ニューヨーク行きを発表する。

 Happiness & Rest
 約束してくれた君
 だからもう一度あきらめないで
 まごころがつかめるその時まで

 SOMEDAY
 この胸に SOMEDAY
 ちかうよ SOMEDAY
 信じる心いつまでも SOMEDAY

渡米直前の1983年4月21日、初のベストアルバム『No Damage (14のありふれたチャイム達)』をリリース。選曲は自身が行なった。シングル曲の「アンジェリーナ」、「ガラスのジェネレーション」、「サムデイ」が収められた同盤は自身初のオリコン1位。世は空前の佐野元春ブームに沸くが、時に本人は既にニューヨークのアッパー・マンハッタンに居を移していた。

尾崎豊や吉川晃司ら、「佐野元春以降」の若者たちが登場するのは、翌84年である。

カタリベ: 指南役

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