日本のシティポップを繋いできた最重要人物、村上 “ポンタ” 秀一 トリビュートライブ  WOWOWで放送! ポンタのドラムに魅せられたアーティストたちによるトリビュートライブ

歌を邪魔せずに存在感を放つドラマー、村上“ポンタ”秀一

わたしが最後に見たポンタさんのステージは、2018年12月6日、新中野弁天での『Saku-Matsu LIVE with 村上ポンタ秀一&楠瀬誠志郎』。ポンタさんの弟子だったこともある、楠瀬誠志郎さんがヴォーカルのステージだった。自分も歌ったことがあるステージで、ポンタさんのド派手なドラムセットに度肝を抜かれ、歌を邪魔せずに存在感を放つドラムの音に圧倒され、そのトークは「ワーオ」の嵐だったことを今でもときどき思い出す。

2021年3月にポンタさんが帰天して10か月後の2022年1月初めのこと。わたしは2か月後に行われるトリビュートコンサートのことを知った。これは絶対はずせないコンサートだ、行かなかったら後悔する。知るや否や速攻で申し込みをしていた。とにもかくにも、コンサートに参加するメンバーが幅広いのだ。

ポンタさんは日本のシティポップを繋いできた重要人物のひとりだ。重要人物の前に “最” をつけてもいいくらいだと個人的には思っている。

ジャンルは多岐、レコーディング総数は14,000曲超!

ポンタさんと音楽の出会いは、1963年に入学した西宮の今津中学でのフレンチホルン。当時の今津中学校は全国大会で1位を取る学校だった。ブラスバンド部の顧問だった得津武史先生に校門で声をかけられたのがきっかけだったという。その後、得津先生の縁で大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者だった朝比奈隆さんに「リストがいいからティンパニをやりたまえ」と勧められ、そこから打楽器の道に入った。西宮市立西宮高校時代は指揮者を目指していたという。このあたりは、ポンタさんの著書『俺が叩いた。ポンタ、70年代名盤を語る』(リズム&ドラム・マガジン)に詳細があるので、ご興味ある方は是非読んでほしい。

高校卒業後、一旦は大阪教育大学に進学するもすぐにドロップアウト。実家を勘当されて、得津先生に大阪ロイヤルホテルの社長を紹介されてバンドボーイの道に進む。高校時代に聴いていた大橋巨泉さんのラジオ番組『BEAT POPS』でポップスを知り、友人に連れて行かれたジャズ喫茶で聴いたジョン・コルトレーンの1963年のアルバム『インプレッションズ』がドラムに興味を持ったきっかけ、と前述のポンタさんの著書に記載がある。

そこからポンタさんはプレイヤーとしての活動を始めた。神戸出身のギタリスト、大村憲司さんと一緒にやりたいという理由で “赤い鳥” に加入し、レコーディングの付き添いで行ったロサンゼルスやサンフランシスコで米国のトップミュージシャンの演奏を目の当たりにし、1973年6月に赤い鳥を脱退した後は次第にスタジオミュージシャンとしての活動を活発化させ、並行してリーダーアルバムやバンド活動、数多のセッションを行っていた。

レコーディング総数は14,000曲以上にのぼり、関わった人々の名前を挙げていけばきりがない。フォーク、ロック、ポップス、歌謡曲、演歌、ジャズ、フュージョン、映画音楽、アニメソング、そして純邦楽とのコラボレーションである “はにわオールスターズ” … クラシックから音楽の世界に入ったポンタさんは、音楽のジャンルを問わず、色々なところでドラムを叩いていた。

ポンタを慕うミュージシャンが集うトリビュートコンサート開催

そんなポンタさんを慕ったミュージシャンは世代を問わず多数いる。今回のトリビュートコンサート『村上“ポンタ”秀一 トリビュート ~One Last Live~』では、ゆかりのあるミュージシャンから、ミュージシャンとしてのポンタさん、人間としてのポンタさんのいろいろなエピソードが飛び出してきた。

この日わたしが印象に残った場面を時系列でいくつか紹介する。

“最後の弟子” と言われたジャンク・フジヤマさんが最初に登場した。デビュー直前、2012年5月に目黒のブルース・アレイ・ジャパンで行われたライブでも披露された「秘密」と、山下達郎さんのカヴァー「LOVE SPACE」を披露。若い頃の達郎さんはきっとこんな風だったのだろう、と思わせる迫力のある歌声だった。

「Fever」を披露した後「葉巻が印象的」とポンタさんを語ったのは一青窈さん。「CDよりMDのほうが音がいいんだよ」とポンタさんに教わったそうだ。

ポンタさんのドラムセットで演奏するドラマーのみなさん、村石雅行さん、国場幸孝さん、SATOKOさん、松下マサナオさん、仙波清彦さんのプレイはいずれ劣らぬ迫力だった。そしてポンタさんに「ドラマーとして尊敬している」と言わしめた、森高千里さんもドラマーとして登場し「ララ サンシャイン」を叩き語りした。

佐藤竹善さんはポンタさんとのセッションでは、いきなり「コレをやるぞ、覚えろ」と毎回言われていたという。この日披露したTOTOの「99」もそんな思い出がある、と語っていた。

未唯Mie、一青窈、大黒摩季、森高千里がピンク・レディーを熱唱

トリビュートのある意味目玉だったのは未唯Mieさんのコーナー。「ポンタさんのスタジオミュージシャンとしての素晴らしいお仕事を」ということで、この日登場した女性シンガーをケイちゃん役に仕立て、一青窈さんと「ペッパー警部」、ポンタさんを「ポンちゃんパパ」と呼ぶ大黒摩季さんとは「ウォンテッド」、子供の頃ピンク・レディーが大好きで、ご自身のコンサートでもピンク・レディーの曲を取り上げたことがある森高千里さんは、当時の衣装で「UFO」を。3人のケイちゃんとはいずれも息のぴったりあったパフォーマンスで、客席でも座って踊る観客が続出していた。

ピンク・レディーの興奮が冷めやらぬ中、本編最後の角松敏生さんのステージ。1981年、デビューアルバムのレコーディングでガチガチに緊張していた20歳の角松さんは、お手洗いで一緒になったポンタさんに気持ちをほぐしてもらって以来の仲だと語った。レコーディング時にポンタさんが演奏していたトラックと一緒に演奏する「Ramp In」、ポンタさんのカウントからはじまる「YOKOHAMA Twilight Time」には思わず涙した。

アンコールでは発起人の斉藤ノヴさんが挨拶し、“PONTA BOX” の曲を披露。まだ、ポンタさんがその場にいるように思えたのは、わたしの気のせいか。感情を激しく揺すぶられたままではそのまま帰りたくなくて、皇居の御濠端を少し散歩してから帰った夜だった。

カタリベ: 彩

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