【特別寄稿】パチンコ産業の歴史③「第2期黄金時代~大発明!チューリップの誕生」(WEB版)/鈴木政博

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味において「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。
※この原稿は2010年6月号に掲載していた「パチンコ産業の歴史③」を一部加筆・修正したものです。

1. チューリップの誕生
「連発式」と「オール20」の人気でホール数が45,000店舗にまで増加した「第1期黄金時代」は、1955年に連発式、オール20ともに禁止され、一転して冬の時代へ。8,400店舗と一気に80%減にまで落ち込んだパチンコ業界を救ったのは、1957年に西陣が発明・開発した「役物」だった。西陣「ジンミット」のヒットに続けとばかり平和が「コミックゲート」を、各社からも続々と「役物搭載機種」が発売され、パチンコ業界は底を打つ。そしてこの発明こそが、この後の「第2期黄金時代」を生み出すきっかけとなった。

1959年「風俗営業取締法の一部改正による風俗営業等取締法」が施行。「ぱちんこ」は、ここから正式に風営法7号営業となる。この年には、西陣が初の役物搭載機となった「ジンミット」の進化系にあたる「あたりだよおとっつあん」が発売され大ヒット。これは、役物内に人形のようなものを配置、玉が役物に飛び込むたびに人形が飛び出すという視覚的に楽しいもので、後の「ハネモノといえば西陣」といわれる黄金期への布石となった機種ともいえる。

そんな1959年、大阪にて密かに世紀の大発明が生まれつつあった。大阪で部品メーカーを営んでいた鳴尾辰三なる人物が、後の救世主となる「チューリップ」の原型を考案したのだ。この鳴尾氏の考案したものは、一度入賞すると、小さなハネが数秒の間、開きっぱなしになるというもの。ハネが開いている間は、直接入賞口から入賞しなくても、玉がハネに乗るだけで賞球が獲得できるという仕組みだった。一度入れば、再度入り易い。これこそ、業界不況を救う「チューリップの原型」誕生の瞬間だった。

しかし鳴尾氏は、この発明を名古屋の成田製作所に売ってしまう。鳴尾氏は世紀の大発明を成し遂げたものの、これを実用化・商品化し、大量販売するまでには至らなかった。パチンコ業界内で、鳴尾氏の名前が大きく取り上げられてこなかった要因は、このあたりにあると思われる。そして、この発明を買い取った成田製作所は、 この役物にさらに改良を加えていった。このままでは、せっかく開いた小さなハネが、数秒すると自然に閉じてしまう。これを、次にハネが玉を拾うまで開きっぱなしにしたい。そうして1960年、ついに「チューリップ」が誕生、成田製作所が特許を取得するに至る。2. 第2期黄金時代の始まり
1960年、チューリップの誕生とともに産声をあげたのが「日本遊技機工業協同組合(日工組)」と「全国遊技機商業組合連合会(全商連)」だ。この両組合は現在でも活動中のものだ。日工組は発足当時、何と加盟60社で設立されている。1963年に「日本遊技機工業協同組合」は加盟組合員54社で「日本遊技機工業組合」に改組、現在に至る。また同じく全商連も1989年に協同組合の認可を受け「全国遊技機商業協同組合連合会(全商協)」に改組されている。

このチューリップの誕生とともに1960年には「東京台東体育館」でパチンコ機展示会が開催。1962年には「大阪府立体育館」でもパチンコ機展示会が開催された。1963年に日工組が改組されると、同年にも東京で「パチンコ機展示会」を、翌1964年には大阪で「西日本遊技機展示会」を開催する。この間、チューリップ人気は西日本を中心にどんどん高まっていった。本誌「遊技日本」が創刊されたのは1961年なので、バックナンバーにてこの辺りの展示会の様子も記事でうかがい知ることができる。

1962年「パチンコ機展示会」

1964年「西日本遊技機展示会」

そして世間が東京オリンピックに沸いていた1964年、風俗営業等取締法の一部も改正されている。1ヶ月だった許可期間が3ヶ月更新に、18歳未満のパチンコ店への入場が禁止に、そして景品単価の最高限度額が300円になった。ここからパチンコは「大人の遊び」になったのだ。そしてホール数も1万店を回復、遊技機台数は125万台まで増えた。さらに1966年、遊技機基準の緩和により36種類の役物使用が正式に認可。これによりチューリップは全国的に普及、各地で爆発的な人気を博した。全盛期には製造·販売数が年間400~500万個と言われる程、チューリップ役物は、売れに売れた。同年7月に開催された「’66東京パチンコショー」も盛況でパチンコ業界は空前のブームとなり、ここに第2期黄金時代は頂点を極めることとなる。3. 新ジャンル遊技機の誕生
チューリップ誕生に平行して、実は画期的な新ジャンル遊技機も誕生していた。1958年に藤商事が「じゃん球」の製造を開始。業界初でリースにて全国に販売を開始した。当時発売されたものは、コイン1枚を投入することにより、 封印式の上皿に出てきた14発の玉の打ち出しを1ゲームとしたもの。盤面の一番下に麻雀牌が書かれたポケットがあり、入賞するとその牌が成立。14球で何らかの役が成立すれば、コインが払いだされるという仕組みだ。初期にあったメダル式パチンコに似た風貌により、一部で人気は継続。そしてこのゲーム性は、1972年に認可され誕生する「アレンジボール」へと続くことになる。

ちなみにこの「じゃん球」は、近年にも発売されている。2003年までは、3枚200円のコインを投入、14球が封印式上皿に出てきて14球の打ち出しを1ゲームとするゲーム性だった。これは「じゃん球」「アレンジボール」にも共通した内容で、役の成立でコインが下皿から払い出される仕組みだったが、2004年に規則が改正され内容が変化。コインは1枚20円になり、パチスロと同じコインを使用することとなった。なお2007年に発売されたサミー製じゃん球「ドリームジャンベガス」は、コイン3枚投入で14枚の配牌が液晶上に表示され、不要牌を捨てながら11球の打ち出しをし、役が成立したらコインが獲得できる内容だ。サミーからはその後も「ぎゅわんぶらあ自己中心派(2010年)」や「手打ち雀球伝道録カイジ(2012年)」などが発売されている。

また1964年には、公安委員会が正式に認定した「オリンピアマシン」も発売された。初めての認可機はセガ社製「オリンピアスター」で、1メダル1ライン機のボーナス無しという仕様だったようだ。東京オリンピックの年と同年だったため「オリンピア」という名前が付けられたらしい。認可が受けられた大きな理由は「ストップボタン」を搭載したために「技術介入性」が加味され、偶然以外の要素があると判断されたため。ただし、都道府県により許可・不許可の温度差はあったようだ。しかし慣れれば目押しで図柄をそろえる事が可能なゲーム性だったため、普及はしなかった。しかしこれが、現在の「回胴式遊技機」であるパチスロへと進化を遂げる第一歩となった事は確かだ。この時代に誕生した数々の発明品は、まさに現在のパチンコ産業を支える礎となっているといえるだろう。

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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