「お国のため」必死に整備 坂本肇さん(91)=五島市野々切町= 飛行場建設、人力で作業 戦争の記憶 2022ナガサキ

戦時中、建設に携わった飛行場について説明する坂本さん=五島市野々切町の市道

 長崎県五島市のシンボル鬼岳を望む野々切町の市道。約1キロにわたって延びる直線道路は、戦時中に設けられた滑走路の名残だ。旧日本海軍の航空基地「野々切(ののきれ)飛行場」(通称)。近くの坂本肇さん(91)は旧制五島中時代、建設に携わった。「『お国のため』という気持ちで必死だった」と当時の記憶を振り返る。

 父は旧南松浦郡本山村(現野々切町など)の助役。一人息子として生まれた。1941年12月に始まった太平洋戦争の序盤、戦勝報告がもたらされるたびに地区でちょうちん行列をして祝った。「日本が勝つだろうと思っていた」
 43年に五島中に入学。だが、翌年ごろには旧福江城内にある校舎に陸軍の拠点が置かれ、登校できなくなった。戦況が激しさを増すと、五島沖の東シナ海でも米軍の潜水艦が日本の船舶に被害を与えた。五島文化協会発行の「終戦の五島を記録する」(深尾裕之氏著)によると、野々切飛行場は、佐世保の旧日本海軍が周辺海域を厳重警戒するため建設。基地名「富江陸上飛行場」として、畑が広がる一帯にV字型の滑走路2本を整備した。
 建設には、五島中の生徒などが奉仕として駆り出され、朝鮮半島出身の徴用工もいた。重機はない。当時2年の坂本さんも朝から夕方まで、人力で平らにならす作業に打ち込んだ。
 滑走路は、44年夏から秋にかけ相次いで完成。敵潜水艦攻撃用の戦闘機が複数配備され、毎日東シナ海へ訓練に飛び立ったという。ある日、見学に訪れた格納庫の戦闘機を触ると絹のような感触だった。「機体を造るジュラルミンなどが足りていなかったのではないか」。資源不足に陥っていた当時の状況を推察する。

 45年6月ごろには、近くの翁頭山で鉱物のダイアスポアの採掘に泊まり込みで動員された。戦闘機の部品の原料にするためと聞いた。戦況の悪化によって、五島にも米軍機が来襲。ある日、野々切にも敵機グラマンが機銃掃射を仕掛けてきて、坂本さんも母と防空壕(ごう)などで身を潜めた。
 そして終戦。秋ごろ、飛行場に残った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)2機が焼却処分された。近所の人たちと見物した坂本さん。米兵が燃料をかけて点火すると、「ボッ」と音を立て、30分もせずに跡形もなく燃えた。「(日本軍の主力だった)ゼロ戦があっけなく燃えてしまった。戦争の無益さを痛感した」
 五島中卒業後、熊本県の語学専門学校で英語を学び帰郷。地元の翁頭中を皮切りに約40年間、主に五島列島の中学や高校で英語教諭として教壇に立った。
 退職後の約20年前、五島市であった国際トライアスロン大会に参加する米国人らの歓迎行事では、日米の習慣の違いについて講演して相互理解を図った。「かつて『鬼畜米英』と教えられた相手。しかし、現在は両国民が恩讐(おんしゅう)を乗り越えて手をつなぎ、心と心を結んでいる」と坂本さん。「これが本来の人間同士の姿であり、国籍は違ってもお互いを理解して平和な世界をつくらなければならない」と語る。


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