テレビ番組が小さく出演者の表情を映し続けるのはなぜ?佐藤優が指摘する現代社会の問題点

コミュニケーション手段が多様化する現代において、相手の気持ちや意図を正しく理解して、それに適切に応える力が必要になります。

そこで、元外交官で作家の佐藤 優氏の著書『未来を生きるための読解力の強化書』(クロスメディア・パブリッシング)より、一部を抜粋・編集して行間を読む力「読解力」について解説します。


SNSは異質なものを排除する

「読解力」によって、私たちはさまざまなテキストの意味を理解し、それに対応することができるようになります。このことは、私たちのコミュニケーションそのものにも当てはまります。

本来、コミュニケーションとは、他者を理解し受け入れながら、同時に自分を相手に理解してもらうように努めることでしょう。

有意義なコミュニケーションを成立させるには、「読解力」が不可欠なのです。逆に言えば「読解力」が不足していたら、コミュニケーションも成立しません。

私たち日本人に、その力が不足しているとすれば、当然コミュニケーションにも影響が及んでいるはずです。

いまの社会は、SNSが発達しコミュニケーションツールは非常に充実しています。しかし、本当にそれによって私たちはコミュニケーションをうまく行えているでしょうか?ちょっと考えてみても、じつに心もとない感じがします。

SNSは人間関係を結びつけるどころか、むしろ分断するツールになるー。そんな危険性が巷に知られるようになったのは、2008年、バラク・オバマがマケインを破りアメリカ大統領に就任した際の、選挙戦にさかのぼります。

当時、民主党のオバマ陣営はSNSを駆使してライバルに大きな差をつけて勝利しました。陣営と支持者たちの間で、SNSを通じてさまざまなやり取りが行われました。それが集票につながった、最初の大統領選挙だと言われています。

その後、あるリサーチャーによる調査によって、面白い現象が明らかになりました。民主党と共和党のそれぞれのブログコミュニティのつながりを解析したのです。すると、それぞれのつながりのなかで完結し、両党の間でのコミュニケーションがほとんど行われていなかったのです。

このことによって、SNSは同質性の高い集団においてはコミュニケーションを活性化させる働きが強い一方、立場や意見が違う者を排除する閉鎖性が強いツールであることが指摘されるようになりました。

ある現象によって分断される米国

その後、共和党のドナルド・トランプが登場し、民主党のヒラリー・クリントン候補を破った大統領選挙では、この傾向にますます拍車が掛かりました。この頃から言われるようになったのが、「エコーチェンバー現象」と言われるものです。

エコーチェンバー現象とは、ある人物の意見や主張が、肯定され評価されながら、集団内のメンバーによって繰り返される現象を言います。それはあたかもこだまが鳴り響くかのように反響し、共鳴して、集団内で一層大きく強力なものになっていきます。

トランプの過激なツィッターの投稿が、支持者たちの間でリツイートされながら、エコーチェンバー現象によって大きな力になっていった。それによって巷の予想を裏切り、多くの支持を集めたトランプは大統領に就任します。

彼は大統領就任後もSNSの力を最大限利用し、ときに相手をおとしめ誹謗するかのようなツイートを上げながら、自らの支持者をより熱狂的なトランプ教の信者に仕立て上げます。

彼が行ったことは、民主主義の下での国民同士の対話ではなく、主義主張の違う者同士の対立と敵対感情を煽り、結果的に米国を分断することでした。

その結末が、2021年1月6日、1000名近いトランプ支持者が、選挙の不正を訴え、バイデンの大統領就任を阻止するべく、連邦議会を襲撃した事件です。

そして彼らの多くが、トランプこそがさまざまな陰謀から米国や国民を救う救世主であり、バイデンなどの民主党やその支持者は、自らの利権と権力をほしいままにするために真実を歪め不正を働く、悪の集団だと信じていました。

この事件によって、ここ数年の間で米国に深刻な社会的な分断が起きていることが明らかになりました。

同質性の高い内輪のコミュニケーションだけで完結し、異質なものを排除する。エコーチェンバー現象によって自己正当化が行われ、対立や分断が深まる。その結果が、この事件だと言えるでしょう。

他者の存在を認識し、尊重するところから始まる、本来の民主主義の理念はすでにそこにはありません。

代わってはびこったのが、自分たちと立場を異にする者に対する敵愾心や恐れでしょう。そして、誰かが自分たちの立場や利益を脅かそうと目論んでいるに違いない、という被害妄想、被害者意識が生まれてくる。

それによって自己保身的に他者を排除したり、攻撃したりする排外主義が大手を振って台頭しているのです。

言葉を変えて言うならば、米国人が対象を理解しようとする「読解力」を決定的に失ってしまった、ということに他なりません。

心地よい情報に囲まれた日本人

ひるがえって日本はどうでしょうか? 米国ほど深刻な分断が起きているわけではありません。

しかしながら、日本の場合は、社会全体が一つのコンセンサスに基づいて一元化しがちです。米国のように分断、分裂化するほどの社会的なダイナミズムがあるわけではありませんが、同調圧力が高く、エコーチェンバー現象が起きやすい文化的な土壌があるように思います。

その上にネットやSNSツールの持つ閉鎖性が重なることで、同じ考え方や価値観を持った、同質性の高い者同士でネットワークが完結し、異質な意見が入り込みにくくなりがちです。自分たちの考えや意見が、あたかも多数派のように錯覚してしまうのです。

さらに、ネットのフィルター機能が曲者です。フィルター機能とは過去に検索した内容などのユーザー情報をもとに、その人が興味を持ちそうな情報を拾い上げて示す機能です。

皆さんもお気づきと思いますが、パソコンを開きブラウザを立ち上げると、広告も情報も、自分の興味関心のあるものがズラリと並んでいるでしょう。それはフィルター機能が働いているからです。

自分にとって心地よく都合のいい情報ばかりに囲まれ、いつしかそれが当たり前になってしまう。しかもSNSでやり取りするのは、自分と同じ意見の人たちばかり……。それが続くとどうなるか?

自分の意見や価値観が大多数の意見だと錯覚し、自分にとって異質な情報、都合の悪い情報を受け入れる許容力がなくなってしまうでしょう。

コミュニケーションツールはたくさんあり、そのなかでのやり取りは膨大ですが、その内容はワンパターンなものばかりです。一見コミュニケーションがたくさんあるようで、じつはコミュニケーション不全の状態といってよいでしょう。そこでは決定的に「読解力」が失われていくことになるのです。

ワイプで人の表情を抜くのは何のため?

その流れのなかで起きているのが、ときに過剰に思える日本礼賛ムードだと思います。テレビの番組でも、相変わらず日本の伝統文化や科学技術などを外国人に紹介し、彼らが驚き、賞賛する様子を映すという、日本礼賛番組がゴールデンタイムに流されます。

このような日本礼賛ものは、最近はとくにYouTubeなどに比重が移ってきているように感じます。「中国人が日本のラーメンのおいしさに絶句!」「日本の街の美しさに驚く欧米人」といったタイトルの動画が目立ちます。

あたかも、日本人が他国民に比べて文化度が高く、手先が器用で繊細で、創造的なセンスに溢れた国民であるような気持ちになる。

ですが、ちょっと目を転じれば、ドイツやフランス、イタリアやスイスなどをはじめとして、多くの国々にも、モノづくりの確固とした歴史や伝統があり、古くからの地場産業が栄え、世界的なブランドが出ている地域がたくさんあります。

食べ物や料理も、日本では味わえないおいしいものが世界の各地にたくさんあり、私たちが知らないものがまだまだあるはずです。

それらに目を向けようとせず、十分な比較や検証もなく、自分たちの文化が優れている、特殊だと考えるのは単なる思い込みで、自己満足的な妄想に近いのです。

テレビの話が出たついでに、もう一つ。ワイドショーなどで、出演者たちの表情をワイプ(一つの画面を片隅からふき取るように消していき、その後に次の画面を現わしていく画面転換の方法。転じて、画面の一部分に小窓のような別画面を表示する方法を言う)で抜くことがいまや当たり前になっています。

悲惨なニュースには悲しい出演者の顔を映し出し、楽しい話のときには笑顔が映る。おそらく30年ほど前にはなかった映像手法だと思います。

果たしてそのような映像が必要かと私などは思いますが、ワイプで誰かの表情を確かめないと安心できないということなのでしょうか。

一つの出来事に対する反応や判断は人それぞれですから、いろんな反応、表情があったっていい。ところがワイプに出てくる表情は、皆同じです。もし、心和むような話のときに苦虫をかみつぶしたような表情をしていたら? きっとツイッターなどでさんざんに叩かれるでしょう。

ある出来事に対して、誰もが同じ感覚、同じ感情を持たなければいけない。そんな同調圧力のようなものを感じるのは、私だけではないと思います。

皆が笑っているときにつまらなそうにしていたり、皆が悲しんでいるときに平然としていたりするのを許さない。いまの日本の社会の同調圧力、異質なものを認めないという傾向が表れているようにも思えます。

つまり、異質なものに対する耐性が低いということでしょう。自分と異質なものに対する恐怖心が、かなり強くなっているのではないでしょうか。

ナショナリズムは読解力の欠如から生まれる

じつは異質なものを排除しようとし、同質性を求めるのは、人間が社会を維持する上で半ば必然的、不可避的に身につけてきた習性でもあります。とくに近代以前の村社会にあっては、それが顕著だったのではないでしょうか。

近代以降、産業社会が到来して封建的なシステムが崩れるなかで、村社会もまた解体していきます。多くの人たちが家や土地、地域の紐帯から外れ自由になると同時に、工場労働者として都市に流れ込みます。

農村型の村社会から、都市型の大衆社会に変化するなかで、村社会的な同調圧力はいったん影を潜めたかに見えます。

しかし、さまざまなつながりや紐帯から解き放たれ、一見自由になった人々は、不安と孤独に向き合うことになります。その不安と孤独を解消し、もう一度つながりと連帯感を取り戻すために、人々は文化的同質性を再び求めるようになる。マスメディアの発達がそれを加速させていきます。

アーネスト・ゲルナーという英国の社会文化学者は『民族とナショナリズム』(岩波書店)という本のなかで、ナショナリズムがどのようにして生まれるか、そのメカニズムを解き明かしています。

彼によれば国民国家が誕生し、産業社会が到来することで、自由な民が増える。すると先ほどの流れで、人々は文化的同質性を強く求めるようになる。それによってナショナリズムが半ば必然的に誕生してくると解説しています。

国家は大衆の文化的同一性を煽ることで、バラバラになった個々人を再度統合し、さらに産業社会、資本主義の発達によって起こる貧富の格差による不満と分断を、それによって解消しようとします。

簡単に言えば、他の国家の脅威を喧伝することでナショナリズムを高め、そのなかで国内の不満を外に向けるわけです。

ゲルナーの指摘するナショナリズムのメカニズムは、まさにいま私たち現代社会が直面している問題だと言えるでしょう。

しかも、いまやマスメディアだけでなく、インターネットやSNSといったソーシャルメディアが、それをさらに加速させているのです。

日本もまた、狭隘なナショナリズムに扇動され、いたずらに他国を敵対視し、自国の歴史を絶対化する動きが強まっているように思います。

問題はそのなかで、他者の立場や価値観を全く認めようとせず、自分たちの立場と価値観、論理だけで物事を判断し進めようとすることです。その意味において、現代のナショナリズムもまた、「読解力」の欠如から生まれていると言えるのです。

「読解力」の欠如によってナショナリズムが生まれたのか、あるいは狭隘なナショナリズムに染まるなかで、思考が頑なになり「読解力」が落ちたのか? ニワトリが先か卵が先か? おそらくその両方なのだと思います。

著者:佐藤 優

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仕事、人間関係、人生で「行間を読む力」がもっと必要になる! 本を読み、人間を読む。読解力を磨くレッスン
「読解力」とは一般的にはテキストを読み解く力と考えられていますが、私としてはもっと広い概念で考えています。その「読解力」の詳しい内容は、本書で明らかにするとして、とりあえずこの場で、ひと言で言うならば、「相手を正しく理解し、適切に対応する力」とでも言えるでしょうか。
読解力の豊かな人と仕事をすると、一を聞いて十を知るまでいかずとも、こちらの意図を素早く察知して先回りしてくれます。読解力の乏しい人と仕事をすると、説明したはずのことが伝わっていなくてもう一度説明し直したり、誤解や曲解によってトラブルが起きるなど、一の仕事が二にも三にも増えてしまいます。
一緒に仕事をするのに、「読解力」の高い人物、できるだけ楽しく軽やかに仕事ができる人を選ぶというのは、しごく当然のことではないでしょうか。
厳しい時代を乗り切るために、さまざまな資格やスキルを身につけたり、能力を高めようと努力している人がたくさんいます。しかし、私から言わせれば、まず「読解力」を身につけることこそが大事だ、ということになります。
本書の「はじめに」より一部抜粋

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