元神童パト 「バロンドールを獲れると思ってた」と吐露

6月6日に日本代表との親善試合を戦うブラジル代表。

そのセレソンで歴代最多キャップ数を持つカフーは「アレシャンドレ・パトはブラジルFW史上最高クラスのポテンシャルがあった」と話している。

そのパトは『The Players' Tribune』で「パトの身に起きた本当のこと」という長文を綴った。

母が腰が悪く、建設作業員の父がひとりで3人の兄弟を養っていたため、家庭はあまり裕福ではなかったそう。私立学校では本が買えなかったため、コピーした紙を持って行っていたとか。

インテルナシオナルでの一世一代の入団テストにも車で9時間かけて行ったうえ、お金がなかったので父と一緒にラブホテルに泊まったとのこと。

さらに、父が持ってきたスパイクはポイント(スタッド)が片足ずつゴム製と金属製で違うもの。パトは「冗談でしょ…どうやってプレーするの?」と愕然としたものの、すでにスパイク契約していたユースの大物選手から拝借することができたとか。

その結果、インテルの入団テストに合格したパトだが、その1年前には左手を切断する危機に瀕していた。

駐車場のチェーンに躓いて左腕を負傷。そのままプレーしたり、遊んでいたりしたが、検査した医師から「いますぐ手術しないと切断することになる」と宣告されることに。

手術費用は支払えそうになかったものの、父親はパトがプレーするビデオを見せて説得したところ、医師は「心配はいらない。手術は私がする」と返答。パトは「奇跡だった。彼の名前は一生忘れない。僕に新しい人生をくれた」と話している。

そんな彼はミランに移籍した後、バロンドールを獲れると思っていたという。

アレシャンドレ・パト

「期待はものすごく大きかった。僕はスーパータレントだったし、確実視されていたからね。

メディアやファンは話題にするし、他の選手たちでさえ持ち上げる。

『パトは世界一になる』、『パトはバロンドールを勝ちとる』。

注目されるのは好きだったし、話題にされたかった。でも、どうなったか。

僕はあまりに夢を見過ぎてしまった。

まだ一生懸命取り組んでいたのに、想像では色んなところに行ってしまう。

頭のなかではすでにバロンドールを受賞してたよ。どうしようもない。影響されないなんてムリさ。

それまでは地獄のような苦しみを味わってきたこともあったしね。なぜ楽しんじゃダメなのかって。

2009年にはゴールデンボーイを受賞した。バロンドールは考えずにただ楽しんでいた。

いまを生きている時の僕はアンストッパブルだった。でも、頭のなかが未来に囚われてしまった。

そして、2010年以降は常に怪我をするようになった。自分の体に自信が持てなくなった。人から言われることが恐くなった。

怪我しちゃダメだと考えながら練習していた。もし怪我をしても、誰にも言わない。

筋肉系の問題が治ったと思ったら、足首を捻る。そして、そのままプレーする。ボールみたいに腫れあがっていたよ。

でも、チームをがっかりさせたくなかった。みんなを喜ばせたかった。それが僕の欠点でもあった」

「みんなはシーズン30ゴールを期待するけれど、僕はピッチに立つことすらできない。

他人から疑われるのは対処できたけれど、自分で疑心暗鬼になるのとは違う。

そうなるとどうなるか。本当に愛してくれている人が分かるんだ。

多くの人が『結局、彼は成功しないだろうな』という感じになった。

とてもさみしかったね。インテルナシオナルではいつも過保護にされていた。

みんな何でもやってくれる。僕は怪我やフィットネス、食事について知らなかった。知る必要がなかったからね。ただプレーしていればよかった。

だから、ミランで苦しんだ時、どうすればいいのかは分からなかったんだ。

今はどんな選手も自分のチームを持っているよね。ドクター、フィジオ、フィットネスコーチ。でも、当時はロナウドだけだった。

僕は家族もまだブラジルにいたから親族すら周りにいなかった。代理人はいたけれど、いまのエージェントのように何でも面倒を見てくれるわけではなかった。

もちろん、ミランのドクターやスタッフはいたけれど、彼らは25~30人ほどの選手を見なければいけない。僕とずっと一緒にいることはできない。

ある時、アトランタで医師の診察を受けた後、バルセロナ戦でプレーしたことがあった。

飛行機で10時間移動して、1回だけ練習してね。もちろん、怪我したよ!

アレッサンドロ・ネスタは『彼はプレーするべきじゃなかった。全員いかれてるのか?』って怒り狂っていたよ。

でも、僕は理解してなかった。またやるかって感じでね」

その後、27歳でビジャレアルへ移籍したことがターニングポイントになったそう。インテルナシオナルの時のように子供ではいられないことを悟ったとか。

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その後に中国の天津天海でプレーしたことについては、素晴らしい経験だったと語っている。

当時は恋人と別れた時期で自分を見つめ直すためにアジア行きを決断。イタリア1年目はイタリア語を話さなかったというが、中国ではすぐに食べ物や文化を学んだそう。自宅でご飯や麺類をつくって食べることもしていたとか。

そのうえで、「子供だったのが成熟した。サッカーにはピッチ上のことだけだなくもっと多くのことがあると理解できた。充実感を得られた」と話している。

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