核のどう喝に“怒り”込める 「平和への誓い」代表者 宮田隆さん(82)

核兵器廃絶や平和への思いを語る宮田さん。被爆体験講話に使う長崎型原子爆弾(ファットマン)の原寸大模型は、分解して雲仙市立小浜小に保管している=同市小浜町

 長崎原爆の日(8月9日)の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる代表者に決まった雲仙市の被爆者、宮田隆さん(82)。被爆したのは5歳の時で「実相は十分に語れない」。それでも、世界の戦争体験者や若者との交流を通じて視野を広げ、核兵器廃絶を訴え続けてきた。
 「無差別攻撃だった。今のウクライナと同じ」。代表者決定から一夜明けた1日。ロシアの軍事侵攻を報じる自宅のテレビを見詰め77年前の記憶をたどった。
 爆心地から2.4キロの長崎市立山町(当時)にある自宅の窓際で被爆。8畳間を越えて玄関に飛ばされ、気が付くと母の胸の中で泣いていた。逃れてきた若い女性は水を求めながら目の前で絶命。1週間後、両親と島原半島まで約50キロを歩いて避難した。
 だからウクライナ危機の報道は、当時の自分を見るようで心が苦しい。「子どもたちが涙を流し、家族が引き裂かれている」
 戦後は電機メーカーに勤め、メキシコと米国の海外拠点にも赴任。現地の人に「ヒバクシャ」だと自己紹介すると驚かれ、質問攻めにあった。「被爆者の自分を語るためにも学ばなければ」。そんな思いで、定年退職後に本格的に平和活動を始めた。
 十数年前から小中高校で続ける被爆体験講話。戦争のリアルは「話だけでは伝わらない」ともどかしさも感じる。木工所に頼んで作ってもらった長崎型原爆「ファットマン」の原寸大模型は、自分なりに伝え方を模索した結果だ。
 2013年夏、非政府組織(NGO)「ピースボート」の船に乗り19カ国を訪問。インドとメキシコで被爆体験を証言し、ベトナムでは米軍の枯れ葉剤による戦争被害者らとも交流した。「被爆者が最大の戦争被害者だと思っていたのが覆された」。非核、反戦を訴える決意を新たにした。
 「平和への誓い」で訴えたいのは「怒り」だ。ロシアは核兵器使用のどう喝を繰り返し、日本国内でも、米国の核兵器を配備し共同運用する「核共有」論が公然と語られる。「『長崎を最後の被爆地に』という思いが踏みにじられた」
 今月、核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開催されるオーストリア・ウィーンに渡る。英語とスペイン語のスピーチ原稿を用意するつもりだ。「いつ、どこで体験を語ってくれと言われてもいいように」


© 株式会社長崎新聞社