言葉の裏を読めない人の特徴とは?佐藤優が明かす「読解力」を身につける方法

コミュニケーションでは、オブラートに包んで伝えたり、あえて逆の言葉を使われることがあり、額面通りに受け止めていると、大きな勘違いに繋がるかもしれません。

そこで、元外交官で作家の佐藤 優氏の著書『未来を生きるための読解力の強化書』(クロスメディア・パブリッシング)より、一部を抜粋・編集して「読解力」を磨く方法を解説します。


優秀なはずの外交官が行間を読めない

読書において行間を読む作業というのは、かなり高度なスキルと経験が必要になります。それはロジカル・リーディングやクリティカル・リーディングを駆使し、テキストから距離をとったり、逆に近づいて一体化したりして、ようやくできるようになります。

そして、この行間を読む作業はアカデミックな論文だとか評論、ノンフィクションよりも、小説などのフィクション、しかも純文学系のものほど必要とされます。

論文など、アカデミックで専門的なテキストは論理的に構成されています。帰納的、あるいは演繹的な手法で論理を展開し、結論に導いていく。行間を読まなければならない状況は、本来あり得ません。

論文を読む際はロジカル・リーディングができれば、まず理解することが可能だと言えるでしょう。

評論やノンフィクションも、基本的には事実と検証を積み上げていき、そこから結論を導いていく。構成としては、論文と同じカテゴリーと言えます。

ところが、小説になるとガラリと変わります。文学作品には論理的な文章はむしろ少なく、シミリ(直喩)やメタファー(暗喩)、アナロジー(類比)が多用され、飛躍的な表現がたくさんあります。

それらを読み解き、解釈し、作者や作品の意図や意味をつかみ取る。あるいは作品の価値を認識する。文学作品は教科書や辞書ではありませんから、解釈も価値判断も個々人の自由裁量です。好き嫌いも、善も悪も、傑作か凡作かも、それぞれの判断と認識、感性と感覚に従って自由です。

それだけに文学作品を読む作業は、大変高度な作業だといえる。ところが、高学歴者であるほど、文学作品を単なる娯楽や読み物だとして、低く見る傾向があります。それよりも学術書や専門書の方が価値が高く、レベルが高いように考えがちです。

学術書や専門書は難しい専門用語が並んでいますから、一見レベルが高そうに見えます。しかし表現されていることは論理的で、その構成や構造もある程度形があり、決まっています。論理的思考力と語彙力さえあれば、だれでも文章を追っていけば理解可能です。

ところが、文学作品はそうはいきません。行間を読まなければ、深い理解には達することができないのです。

じつはこのことを痛感したのが、外務省の主任分析官となり、後輩たちとチームを組んだときでした。この人たちは東大や東京外大卒の頭脳明晰で優秀な人材で、論理的思考力は抜群でした。しかし、インテリジェンスに必要なコンテキストを読む力、行間を読み、言葉の綾を汲み取る能力が著しく弱い。聞けば、小説など満足に読んだことがない。

これでは諸外国の外交官と伍して戦うことなどできません。そこで私は勉強会を始めました。古今東西の文学作品、古典的名著を読むことにしたのです。教養を深めるというよりも、行間を読む力をつけるというのが狙いでした。

最初はいまさら古典文学なんて、と馬鹿にしていた彼らですが、読書会で作品の文章を読ませ、それを解釈させるとじつにお粗末な解釈しかできない。彼ら自身に痛感してもらうことが先決だったのです。

言葉の裏を読めたら一人前

行間を読める人とそうでない人は、日ごろの人間関係や仕事でも大きく差が出ます。行間を読めない人は、相手の言葉を額面通りに受け止めます。

たとえば相手に何かをお願いする場合、「いいですよ」と相手が言っていても、本気で承諾している場合と、内心は嫌がっている場合があります。

表情や間、声のトーンなどからそれらを推察することができるかどうか?行間が読める人であれば、その非言語的なサインを逃さないでしょう。行間が読めない人はそのサインに気づかず、言葉通り相手がOKしてくれたと受け止めてしまいます。

すると、人の気持ちを汲めない人間、強引な人という印象になり、人間関係がうまくいかなくなる可能性が高い。それは当然、仕事の成績につながります。営業マンのような職種であれば、即成績に響くでしょう。

ちょっと前までは、言葉の裏を読むことができるのが、立派な社会人の証のような意識が強かったと思います。上司や先輩たち部下や後輩に向かってストレートにモノを言うのではなく、オブラートに包んだり、あえて逆の言葉を言ったりすることがよくありました。

ある有力政治家の口癖で、「ご苦労さま」という言葉がありました。その政治家が「ご苦労さま」と言った場合は、相手をねぎらう意味ではなく、相手の実力に見切りをつけた場合でした。「お前にもう用はない」というのが本意なのです。

このように相手の口癖なども知っておかないと、「ご苦労さま」と言われて労をねぎらわれたと思い、ぬか喜びしてしまうことになります。

これと逆なのですが、ひと昔前に職場で多かったのが、期待を寄せているからこその叱責です。「こんなこともわからないのか!」というのは、その裏として「お前ならこれくらい理解できて当然だろう」という意味が込められています。

「いつになったら一人前に仕事ができるようになるんだ!」というのは、「期待しているのだから早く一人前になってくれ」という意味だったりします。極端な例になると、「お前なんか辞めちまえ」という罵倒にしか聞こえない言葉が、「歯を食いしばってでも頑張れ。そうすればものになる」みたいな意味だったりする。

いまの時代では到底考えられません。即、パワハラで訴えられてしまいそうです。ただ、20年ぐらい前までは、オフィスで当たり前のように上司の怒号が飛び交っていたものです。
それでも何とかうまくいったのは、お互いが言葉の裏の意味を理解し、暗黙の了解のなかでやり取りしていた部分があったからでしょう。

もちろん現在では通用しませんが、ある意味、汲み取るべき「行間」がたくさんあり、コンテキストに溢れた時代だったとも言えるのではないでしょうか。

読解力を構成する「要約」と「敷衍」

私がゼミや勉強会などで読書の仕方を教える際、必ず参加者にやってもらうことがあります。それはテキストの「要約」と「敷衍(ふえん)」です。

「要約」とは言葉通り、文章を重要な部分を抽出して短くまとめ、文意を簡潔に示すことです。「敷衍」とはその逆に、文意はそのままで、それをより詳しく、かつ理解しやすいように言葉や表現を変えながら話を広げていくことです。

私自身が学生の頃、塾の国語の先生に教わった方法です。「要約」と「敷衍」をセットで行うことで、テキストに対する理解が飛躍的に高まります。

まずは「要約」のやり方ですが、テキストのなかのポイントとなる文章を抜き出し、それを再構成します。

一般的なやり方としては、まず文章を段落ごとに分け、それぞれの段落で著者のもっとも主張したいこと、要点となる文章を抜き書きします。

だいたい、各段落の冒頭部分か最後の部分に結論がくる構成が多いので、意識するとよりわかりやすいと思います。

こうして、要点となる文章を箇条書きにして並べます。そして全体として著者が主張したいこと、論理構成をつかみます。その上で、そのなかからさらに重要なポイント部分を抽出し、著者の論理構成に従って再構成します。

偏差値秀才は敷衍することが苦手

「要約」と同じく重要なのが「敷衍」です。こちらはある文章を、その主旨に従って、自分の言葉で言い換えを行い、より詳しく、わかりやすく表現することです。

文字面を追うだけではなく、自分の頭で一度かみ砕いて、自分の言葉で表現する。ですから、まずしっかりと「要約」ができていることが前提です。

その上で、大事なポイントを別の表現で書き換え、論旨を展開していく。ここで大事になるのが、前にお話しした「行間を読む力」です。

行間を読むことで、文章のさらに奥深い意味を理解できれば、それを自分の言葉で表現することで、自然に「敷衍」が行われることになります。逆に言えば、「敷衍」ができない人は、行間が読めていない、つまりは「読解力」が不足しているわけです。

それだけでなく、「敷衍」は自分の言葉で表現するという点で、豊富な語彙力や表現力が必要になります。

ですから、作家や文章を書く仕事についている人は、敷衍する力が必要不可欠であり、それがあるからこそ職業として成立していると言えます。

まずはしっかりと「要約力」を身につける。その上で「敷衍力」を身につけるのが、正しい順番となります。この「要約」と「敷衍」ができることで、結果的に読解力は高まるのです。

その意味で、行間を読むことが苦手な偏差値秀才は、必然的に「敷衍」する力が弱くなります。逆にロジカルな能力は高いので、「要約力」は非常に優れています。するとどうなるか?

彼らはテキストを短く要約し、それを自分の頭に入れた段階で理解したつもりになり、満足してしまいます。なぜなら、マークシート式のテストなら、それで満点が取れるからです。

彼らは言葉を単語として覚えはするのですが、文脈のなかで捉えることをしない傾向があります。その結果、行間を読むこともできないし、敷衍することも苦手ということになります。

「要約」はできても、行間を読むことができず、「敷衍」ができないと、人にやさしく説明することはできません。彼らが難しい言葉を使うのは、何かをごまかそうとしているか、本当は理解できていないか、どちらかということです。

夏目漱石の作品で読解力を上げる

「読解力」を身につけるには論文などの固い文章よりも、小説などの文学作品を読むことが力をつけることになることは、すでにお話ししました。

では、具体的にテキストとしてどんなものを選べばいいでしょうか?結論から言うと、明治の文豪である夏目漱石をお勧めします。

もちろん、他にもいい作家、作品はたくさんあります。しかし、漱石の作品は文章が非常に平易でわかりやすい。さらに、彼のテーマが近代自我の孤独と不安という、いまの私たちも共通に抱える普遍性を持っていることが大きい。

恋愛、人間関係、出世や成功、死生観……。一通り漱石の小説を読めば、近代以降の人間の葛藤や悩みは疑似体験することができるでしょう。

戦前、戦中、戦後から、現代にいたるまで、漱石の提示した文学的テーマは形を変えながらもずっと取り上げられているものです。

日本の文学が近代文学として生まれ変わったのは正岡子規によってだと、私は考えます。子規こそ、俳句や短歌、詩歌を現代の文学として脱構築し、同時に話し言葉を文字に昇華させた最初の人物です。

漱石は子規の親友でした。子規は若くして頭角を現し、自らの文学的立場を確立します。一方、漱石はノイローゼになったり、イギリスに留学して挫折して戻ってきたりと、ずいぶん回り道をしているのです。

漱石は、子規の文学的な価値を早くから理解していました。子規は俳句を近代自我の表現の一つとして捉え、その溢れる情熱の発露の場として雑誌「ホトトギス」を発行します。漱石はそんな行動的な子規に対して、ずっと畏敬の念を抱いていたのです。

子規はご存じの通り結核が悪化して、わずか35歳でこの世を去ります。漱石はその子規の遺志をつぐかのように、その後『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『明暗』『こころ』などの名作を次々に発表し、日本近代文学の父と言われるようになります。

それは、子規がやろうとしたことをより大衆化し、一般化したものだと言ってよいでしょう。ですから、明治時代の文章ですが、漱石の文章は非常に平易で、いまでも大変読みやすい。その意味でも、読解力のテキストとしてふさわしいと思います。漱石の作品を声に出して読み、ロジカルかつクリティカルに文意を理解し、「要約」や「敷衍」を行えば、おそらく相当の「読解力」を身につけることが可能になります。ぜひ、皆さんも漱石の作品に、もう一度触れてみてほしいと思います。

著者:佐藤 優

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仕事、人間関係、人生で「行間を読む力」がもっと必要になる! 本を読み、人間を読む。読解力を磨くレッスン
「読解力」とは一般的にはテキストを読み解く力と考えられていますが、私としてはもっと広い概念で考えています。その「読解力」の詳しい内容は、本書で明らかにするとして、とりあえずこの場で、ひと言で言うならば、「相手を正しく理解し、適切に対応する力」とでも言えるでしょうか。
読解力の豊かな人と仕事をすると、一を聞いて十を知るまでいかずとも、こちらの意図を素早く察知して先回りしてくれます。読解力の乏しい人と仕事をすると、説明したはずのことが伝わっていなくてもう一度説明し直したり、誤解や曲解によってトラブルが起きるなど、一の仕事が二にも三にも増えてしまいます。
一緒に仕事をするのに、「読解力」の高い人物、できるだけ楽しく軽やかに仕事ができる人を選ぶというのは、しごく当然のことではないでしょうか。
厳しい時代を乗り切るために、さまざまな資格やスキルを身につけたり、能力を高めようと努力している人がたくさんいます。しかし、私から言わせれば、まず「読解力」を身につけることこそが大事だ、ということになります。
本書の「はじめに」より一部抜粋

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