交流30年、凶弾に倒れた中村哲さんとの深い思い出 砂漠を緑の大地に、住民からあつい尊敬―安井浩美のアフガニスタン便り(4)

 2019年12月、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードで、日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(本部・福岡市)の現地代表を務めていた中村哲さんが灌漑(かんがい)事業現場に向かう途中、武装した何者かの銃撃を受け殺害された。アフガニスタン取材を続け、カブールに住んできた私は、30年近くにわたり、中村哲さんやペシャワール会と交流があった。井戸を掘り、用水路を作って灌漑してきた枯れた土地は土色から緑色に変わった。なぜ命を賭してまでアフガンの大地に力を注いだのか。現地で今もあつい尊敬を受ける中村さんとの思い出を振り返る。(共同通信=安井浩美)

 ▽中村さんと私

 

中村哲さん(中央)と筆者(左から3人目)=2016年11月撮影

中村さんとのつながりは1989年、私が20代後半の若かりし頃、高校時代の友人と出かけたシルクロードの旅の途中に立ち寄ったパキスタン北西部ペシャワールにさかのぼる。当時、中村さんはミッション系の病院で支援活動をされていて、ご家族も一緒に滞在していたと思う。私たちは、日本人がこの街にいると聞きつけ、病院を訪ねた。日本人の看護師さんとパキスタン人の事務長さんらしき人が対応してくれた。

 この時は、中村さんはご不在だったと思う。甘いお菓子を食べながらいろんな話をした。私たちが日本を出て3カ月ほど過ぎていると話すと「お風呂に入っていって」と看護師さん。いきなりの歓待に少し戸惑ったのを覚えている。ご厚意に甘え早速お風呂に入らせてもらうことになった。3カ月ぶりのお風呂。病院の一角にある浴場は、大きな浴槽にふんだんにお湯が入り、日本の銭湯さながらで感動した。聞くとこの浴場の設計者は中村さんだという。家族が一緒に入浴を楽しめるためなのか、はたまた風呂好きなのか。中村さんは医者でありながら、この頃から設計にご興味があったのかと、後になって思った。

 この後、1年余りの旅を終え日本へ帰国。旅の途中、内戦中で入国できなかったアフガニスタンにどうしても行きたくてカメラを勉強し、写真家になった。ジャーナリストビザを取得し1993年にパキスタン経由でアフガニスタンに向かった。どういういきさつだったかはっきり覚えていないが、その頃アフガニスタンに通うたび、入国前には、当時ペシャワールにあったペシャワール会の宿舎に滞在させてもらうようになった。

 「また来たとですか」と中村さんにも福岡弁で歓迎を受けたりした。以降、中村さんやペシャワール会で働く看護師さんに会うのも楽しみの一つとなった。宿舎では、日本食を作り、お膳に座って食事をしたことが今でも懐かしく思い出される。中村さんと一緒にペシャワール会の活動に同行することもあった。無医村の山岳地がほとんどで、野外の広場に診療所が設けられ、医者である中村さんが着くと多くの村人が診察を受けにやってきた。私の中ではこの頃の中村さんの姿が脳裏に焼き付いて離れない。落ち着いた話し方の中村さんが今でもどこかにいるような気がする。

灌漑工事のおかげで緑の大地となったアフガニスタン東部の水路沿いに立つ中村哲さん=2016年11月撮影

 ▽最後のインタビュー

 亡くなる約3年前の2016年11月、日本政府などとは協力せず一匹おおかみとも言えた中村さんが国際協力機構(JICA)と一緒に灌漑事業を始めると聞いた。一体どうしたことかと思い、アフガン東部ナンガルハル州のジャララバードにいた中村さんに会いに行った。ペシャワール会の事業の成果をこの目で見るのも楽しみだった。カブールから陸路で3時間。パキスタンとの国境に近いジャララバードの事務所に尋ねた。ものすごく久しぶりにお目にかかり、インタビューもさせてもらった。その時の録音記録を久しぶりに聞き直した。住宅街にある事務所入り口には警備の警察官が数人、入り口を入るとすぐに母屋の玄関。玄関を入って右手にサロンがあり、食卓代わりの長テーブルに座ってお話しさせてもらった。ゆっくりと静かにお話しする中村さんがいまでもどこかにいらっしゃる感じがしてならない。

 「アフガン復興で教育も大事だがまず、国民が食べることが必要」と始まった。「食べられない人をどう食べられるようにするかという部分が忘れ去られている」と貧困解消の重要性を中村さんは説いた。本当にその通りだと私も大いに納得。特に支援は都市部に集中し、地方が忘れられていると言う。農村が取り残されている理由は、それを伝えるすべがなかったからだ。英語を話し、国際社会とコミュニケーションがとれるような人は農村には暮らしておらず、もしそういう人がいたとしても他人ごとで済ませてしまっている。

 さらに中村さんは「もし(国際テロ組織アルカイダに暗殺された)国民的英雄のマスードが生きていれば真っ先に農村の支援を始めたはずだ」と言った。中村さんの口から意外な言葉が出たのに驚いた。というのも中村さんは、私利私欲で戦う90年代の内戦の司令官を嫌っていた。しかし、マスードの人となりを自分なりに理解した結果の言葉なのかも知れないなと思った。

 「何がそこまで先生を動かすのですか?」と尋ねると「特別な理由はない。今、目の前にある人としてすべきことをしているだけ」と話し「(人々と交わした)約束は果たす。生きている限り永久に活動は続く」と断言した。

 引退を考えているのかも聞いてみた。「(事業の他州への拡大も含め)将来的な事を考えるとJICAと組むことで国家機関が何らかの形で関わるということは息の長い支援には必要。灌漑事業には10~20年の歳月が必要で、私が死んでもJICAが資金協力し、共同事業としてプロジェクトが続くと信じている」と話してくれた。中村さんを長年見てきた私には、医師として活動されていた頃から、あまりに偉大な中村さんの後継者が見つからない状況を見てきた。この話を聞いた時、私自身の中でも何だか「ほっ」としたのと同時に、お疲れさまですがもう少し頑張ってもらいたいと思わずにはいられなかった。

 さらに続けて「10年もしないうちに私もボケるか死ぬかな?」と笑いながら話され「先生、今おいくつですか」と聞くと「70歳」と答えられ「いやぁ、まだまだでしょう。100歳まで長生きして下さい」といってスタッフと一緒に笑ったのが昨日のように思い出される。80歳を待たず、先生は73歳で凶弾に倒れてしまった。

 ▽アフガンに命をささげたハジサイーブ・ナカムラ

 翌日、緑の大地に変わったガンベリ砂漠を訪れた。からっからだった砂漠は、目を見張るほど山の際まで緑で覆い尽くされていた。もう、感動以外の何物でもない。素晴らしい成果に思わず涙が出そうになった。中村さんもガンベリ砂漠を見渡す丘の上で腕組みをしながら緑地を見つめていた。

カブール国際空港で帰国の途に就く中村哲さんの柩を担ぐガニ大統領(当時)ら=2019年12月

 「ペシャワールで医者として働いていた頃、今の自分を想像できましたか?」と尋ねた。「ペシャワールの頃は、考えもしなかった。アフガニスタンは、自分に合っていると思う。ここにいる方が日本にいるよりも居心地が良い」と話した。アフガニスタンにいる間は、100%アフガン料理を食し、特に豆料理が好きだったという中村さん。20年以上共に働く右腕的存在のジサさんは「こんなにアフガン人の事を思ってくれ一生懸命私たちのために働いてくれる人は他にはいない。給料がなくても中村先生と共に歩んでいきたい」と話した。

中村さんの事業で恩恵を受けたナンガルハル州4地区の人々は、中村さんを尊敬してやまない。中村さんは、うれしそうに「ハジサイーブ・ナカムラ」と電話してきてくれる人がいるんだと話してくれた。ハジサイーブは、イスラム教徒のアフガン人が尊敬する人に対して使う敬称。中村さんはキリスト教徒だが、人々がもう、アフガン人と認めた証しだ。

 長年の干ばつでサトウキビやオレンジなどの農作物が耕作不可能になっていたナンガルハル州。耕作地は、れんが工場と変わり果てた。しかし、中村さん率いる日本の支援による灌漑事業で再びサトウキビやオレンジの栽培が始まった。サトウキビからとれる黒糖やオレンジはかつてはナンガルハル州の特産物だった。  

 特産品の復活とともに古き良き文化も復活した。オレンジの花が咲く頃には、人々はピクニックに繰り出し「オレンジの歌会」が催される。アフガン産の黒糖を口に含んだ老人は「これが昔の味だ」とほほ笑んだ。夢見ていた古き良きアフガン文化の復活も果たすことができたのに、肝心の中村さん本人の姿をもう見ることができない。

カブール国際空港から空路移送される中村哲さんの柩=2019年12月

 これが最後のインタビューになるとはそのときは思いもしなかった。改めて失った人の大きさが身に染みる。ご存命の頃は「何だか頑固で変わった人」と思うことも正直多々あった。中村さんと知り合いになり30年以上たったいま、やっと私自身の中での中村さんの素晴らしさや偉大さを理解できたように思う。「もっといっぱいお話ししたかった」と今更のように思うがもう手遅れ。悲しく残念無念だ。

 中村さんの活動するNGOに対する治安の脅威情報は早い時期から出ていたと思う。インタビューでも「私のボディーガードは、村人達。警官であっても私たちを簡単に攻撃できる」と警官にも注意を払っていた。2010年にペシャワール会の伊藤和也さんが誘拐され、銃撃を受けて亡くなった事件も今回の事件との関わりがあったのだと思う。だが、伊藤さんの事件捜査はうやむやになってしまい、真相は闇の中だ。

 中村哲さんの活動に感銘を受けた親らに「ナカムラ」と命名された赤ちゃん

 中村さんとの交流は30年にも及んだ。アフガニスタンで苦労を重ねてきた同じ日本人として、誰になぜ殺害されなければならなかったのか。人脈や情報源をたどり、イスラム主義組織タリバンが政権を掌握してからも、アフガンに住む日本人として私なりに取材を続けている。近日中に、その追跡取材について報告させていただきたい。

第3回はこちら[
https://nordot.app/873514506619158528](https://nordot.app/873514506619158528)

© 一般社団法人共同通信社