「バス停からの着信を最後に…」 娘(25)行方不明 8年帰り待つ母のノート

ある日突然、最愛の家族の行方がわからなくなってしまったら…。

おととし、全国で警察に届けられ受理された行方不明者は、約77000人。その後見つからなかったとしても、幼い子どもが突然姿を消した…、事件に巻き込まれ行方不明になった疑いが強い…、こうしたケースでない限り、なかなか大きく報じられ続けることはありません。

それでも、家族の帰りを待ち続ける人がいます…。

職場から帰宅途中だった藤野千尋(ふじの・ちひろ)さん(当時25)が行方不明となったのは8年前の6月でした。

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今も娘を探し、無事を祈り続けている比呂子(ひろこ)さん(60)が、胸の内を語ってくれました。

行方不明になった千尋さんのてがかりは?

比呂子さんの記したノートからひもときます。

■行方不明の娘 母が記録したノートには

比呂子さんは、千尋さんの行方が分からなくなってから、警察とのやり取りや、市民から寄せられた情報などを、ノートにまとめています。

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2014年6月7日(土)午前9時ごろ、千尋さんは広島市佐伯区の五日市駅南口からバスに乗り、勤務先の広島市植物公園に向かいました。

千尋さんは、この年の4月から植物公園で臨時職員として働き始め、「ベゴニア」という花の栽培管理を担当。正職員に本採用されることを目指していました。

(母・藤野比呂子さん)
「千尋は『一生ここで働き続けたい』と言っていました。こどもの頃から自然が好きで、山や川を走り回ったりする子。大学でも園芸を学んでいました」

勤め始めて2か月。当日の勤務を終え、運転免許をもっていなかった千尋さんは、いつものように職場の先輩に車で3分程度の「地毛バス停」へ送ってもらっています。先輩と別れたのが、午後6時ごろでした。そしてこれが千尋さんの姿が最後に確認された時間でした。

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■がんの闘病 娘との思い出

千尋さんは市内の公立高校を卒業後、長野県の国立大学に進学しました。離れて暮らす母に、電話口の千尋さんは、大学の講義や所属していた少林寺拳法部の話をよくしていたそうです。

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千尋さんが高校2年の年、比呂子さんは乳がんを告知されました。それ以降、抗がん剤やホルモン療法など闘病生活は10年以上続いています。

「お母さんはきっと長生きするよ」大学受験で自身も大きなストレスを抱えるなか、当時、千尋さんは比呂子さんを思い、温かい言葉をかけ続けてくれたそうです。センター試験に持たせたお弁当、合格発表に喜ぶ横顔…。比呂子さんは当時のことをまるで昨日のことのように語ってくれました。

千尋さんの入学後には、比呂子さんは長野県まで夫と息子の3人で遊びに行ったこともあるそうです。離れて1人暮らしをする娘を、心配しながらも、たくましく感じていたそうです。

比呂子さんのもとに、千尋さんが過呼吸で倒れたと突然連絡が入ったのは、千尋さんが大学卒業を目前に控えた冬のことでした。片道7時間をかけて久しぶりに再会した千尋さんは、憔悴しきった様子だったそうです。

(母・比呂子さん)
「千尋が大学に入学した年に、夫が急死しました。お父さんっ子だった千尋はとてもショックを受けていたと思います。それでも懸命に生活をしていたようですが、就職活動のストレスで心身ともに疲れ切ってしまったようでした」

千尋さんは、大学院への進学を希望していましたが、これを断念し、4年生の秋から就職活動を始めていました。「就職氷河期の再来」とも言われたこの年、開始時期が遅かったこともあり、就活は難航していました。体調はなかなか回復せず、千尋さんはアパートを引き払って、広島の実家で療養することになりました。

■大学卒業、念願の職場へ

千尋さんの大学の卒業式には、広島から母子連れ添って長野県に行きました。千尋さんの体調は万全ではありませんでしたが、それでも友人らとの久しぶりの再会を楽しみに、力を振り絞っていたといいます。

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(母・比呂子さん)
「千尋は部活動の先輩たちが大好きでした。体調が不安でしたが、袴を着て友人らに会うと、ひさしぶりに元気な笑顔を見せてくれました」

卒業後、千尋さんは実家で体調を整えながら、母の比呂子さんと弟の3人で暮らしていました。母の闘病と自らの療養…。就職活動が再開できるようになるまでに、3年の歳月が経過していました。

そして2014年4月、千尋さんは念願の就職を果たします。かねてより希望していた、園芸に関わる仕事でした。

「その日、千尋から電話がかかってきました。『植物公園から臨時職員として働いてみませんかと言われた』と。回答までに猶予をもらったようでしたが、翌日には喜んで必要書類を持って行きました」

その時に撮影した写真を、いま行方不明のポスターに使っているといいます。

■先輩に着信残すも、バスに乗らなかった?

行方不明になった当日の午後6時すぎ、千尋さんは車を降りた「地毛バス」停から、長野県に住む大学の先輩に電話をかけていたことが分かっています。千尋さんが慕う女性ですが、着信があった際は電話に出られず、午後6時半ごろに先輩から千尋さんに電話をかけ直しています。しかし、応答はありませんでした。

先輩に電話をかけた後の千尋さんの消息は分かっていません。ただ、その日の朝に使ったバスのICカードは帰宅時には使われておらず、バスに乗った記録はありませんでした。

千尋さんの当日の所持金は2000円ほど。その後比呂子さんが調べたところ、千尋さんの銀行口座からは出金もなかったということです。

「行方不明になった日、千尋は体調が悪く、気持ちも不安定だったと思います。帰りが遅くても、『1人の時間が欲しいのだろう』と思っていました。何事もなかったように家に迎え入れてあげたかった」

千尋さんを待ち続け、一睡もできないまま2日が経った6月9日、比呂子さんは最寄りの交番に、千尋さんの行方不明届を提出しました。

■限られた目撃証言

届出が受理されると、警察による捜索が始まりました。

(以下、比呂子さんのノートに記載されている内容などを参考にしています)

警察の調べで、9日の朝と夕方に、どちらも佐伯区内で千尋さんが持っていた携帯電話の電波が感知されていたことが分かりました。電波を捉えた場所を探しましたが、正確な携帯電話の位置までは特定できず、その後、電波は途絶えてしまっています。

同じく9日の朝7時ごろ、千尋さんによく似た女性を見たという目撃情報も寄せられています。女性は五日市駅南口のバス乗り場付近のベンチに、ぐったりとした様子で座っていたということでした。

翌日10日、さらに24日には、区のボランティアセンターでも千尋さんに似た女性が目撃されています。女性は杖をついていて、顔を隠すような仕草をみせていたということですが、この女性が千尋さんだったかどうかについては分かっていません。そしてこれ以降、千尋さんの行方について有力な手がかりは見つかっていないままです。

■数千枚のポスター 特徴が似た遺体の連絡…違った

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警察の捜査が始まると、比呂子さんは千尋さんの情報提供を求めるポスターを作りました。制作には植物公園の先輩らが…、市内の施設や店舗などへのポスター掲示の依頼は知り合いたちが協力してくれました。これまでに製作したポスターは数千枚。地元新聞にチラシ約5000枚を配布したこともあります。テレビの取材にも応じ、放送を見た人から情報が寄せられたこともありましたが、進展に繋がるようなものはありませんでした。

25歳での失踪ということで、「ただの家出なのではないか」「宗教団体が絡んでいるのでは」こうした言葉をかけられることも少なくなく、つらい思いをしたこともあったそうです。

別の行方不明事件をニュースで聞くと、特に心が痛むといいます。

(母・比呂子さん)
「子どもが行方不明と聞くと、同じようにつらい思いをしている人が不憫でなりません」

2018年、北陸地方から千尋さんに特徴が似ている遺体が見つかったと、警察から連絡がありました。DNA型鑑定を求められ、千尋さんが使っていたブラシやへその緒などを提出しました。結果がでるまでの1か月あまり、悪い予感ばかりが膨らみ、押しつぶされそうになりました。結果、歯型などから遺体は千尋さんとは別人と分かりましたが、当時の心境を思い出すたびに苦しくなるといいます。

■「おかえり!」声に出せない思い

千尋さんの弟はすでに成人となり家を出ていて、当時千尋さんが住んでいた家では、比呂子さんが1人で帰りを待ち続けています。比呂子さんは、自分が外出中に千尋さんが帰ってきた場合を考え、部屋には自分の携帯電話番号を書いたメモを貼っています。

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比呂子さんのノートには、ここ数年新たに文字が書かれていません。千尋さんの行方について、少しでも情報が増えれば、空のページは埋まっていくはずです。

ノートの背表紙にこう書かれているのに気付きました。

「千尋が帰ってくるんだって!」「わーい!うれしいね!ありがとう!」「ちいちゃーん!」「お帰りなさい!」「会いたかったよ!!」

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比呂子さんに聞くと、笑ってこう答えました。

(母・比呂子さん)「正直に言うと、少しお酒を飲んでしまったときに、つい書いてしまったんです」

■県内では毎年2000人弱の行方不明が届け出される

警察庁の発表によると、2020年の全国の行方不明者の届出受理数は、約77000人。このうち広島県では、1845人です。県内を年代別にみると、20代の行方不明が最も多い366人。次いで多いのが10代の337人と、20代以下の行方不明届が全体の4割近くに上っています。

原因・動機別では「疾病関係(認知症含む)」が最も多く、次ぐのが「不詳」です。それに「家庭関係」「職業関係」と続きます。

■それでも母は娘の帰りを待ち続ける

行方不明者の生死が7年間明らかでない場合、家族などは家庭裁判所に「失踪宣告」を申し立てることができます。これによって遺産相続や死亡保険などの手続をおこなうことができますが、比呂子さんは申し立てはせず、千尋さんの帰りを待ち続けることにしています。

(母・比呂子さん)
「絶望よりも、希望を持ち続けたい…」

8年前、千尋さんが数枚の葉から増やしたベゴニアは、比呂子さんの手で大きく育ち、今年も美しい花を咲かせています。

取材/RCC中国放送 県警班キャップ 家森亮

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藤野千尋さん(25歳)について

身長156センチ・体型中肉・血液型AB型
水色のポケットのたくさん付いた作業シャツ
ライトグレーの作業ズボン着用
ピンクのハンドバッグと白いトートバッグ所持
白にピンクのラインの入ったスニーカー(24.5センチ)
頭髪は、髪を後ろでひとつに束ね、通常はメガネをかけている。
※すべて行方不明当時

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情報提供先:佐伯警察署(082―922―0110)

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