日記に書き留めた犠牲者8人の記憶、「生きなければ」復職果たした元患者の決意 再起の途上で―北新地ビル放火事件(1)

事件後に書き始めた日記帳を手に取る「西梅田こころとからだのクリニック」元患者の男性

 心療内科クリニックで26人が犠牲となった大阪・北新地のビル放火殺人事件から半年がたった。亡くなったのは、メンタルヘルスの不調に悩みながらも必死で再起を図ろうとした患者と、それを支えた医師、スタッフらだった。
 都会の片隅のクリニックで、彼らは何を語り合い、どんな夢を描いていたのか。亡くなった一人一人に思いをはせ、答えを探し求める人々がいる。(共同通信=山本大樹)

 ▽「友だちの誘いがなかったら…」

 「ほんまに、たまたまやったんです。偶然、友だちがここの店でコーヒー飲もうって誘ってくれて。その予定がなかったら、あの日も午前中からリワークを受けに行ってたかもしれないです。いつでもふらっと参加できるのが、あのクリニックの良さだったんで」
 大阪市内の住宅街にある小さな喫茶店。一番奥の座席に腰を下ろした元患者の男性(31)は、ゆっくりと、穏やかな声で話し始めた。あの日の午前中に座っていたのも、同じ店の同じ席。事件が起きたことを知るまでは、のんびりとした一日を過ごすはずだった。

インタビューに応じる元患者の男性=5月下旬、大阪市内

 26人が亡くなった「西梅田こころとからだのクリニック」は、北新地で「本通り」と呼ばれるメインストリートの西はずれ、細長い雑居ビルの4階にあった。放火されたのは昨年12月17日、金曜日の午前中だ。院内に据え付けられた防犯カメラは、通院患者の谷本盛雄容疑者=当時(61)=が出入り口をふさぐようにガソリンをまき、火を放つ瞬間を捉えていた。その場にいたスタッフや患者らはフロアの奥へ避難したが、その先に逃げ道はなかった。西沢弘太郎院長=当時(49)=やクリニックのスタッフ、患者らは折り重なるようにその場に倒れ、一酸化炭素中毒で亡くなった。
 「北新地で火事やって」。喫茶店で友人とくつろいでいた男性が事件の発生を知ったのは、何げなく眺めていたツイッターの投稿がきっかけだった。現場の写真として拡散されている画像には、よく見知った場所が写っていた。「え?本当に?」。慌てて画面をスクロールし、関連ニュースを探す。煙に包まれる雑居ビルの画像。心療内科クリニックが火元だと伝える記事。不安と驚きは、すぐに確信に変わった。気持ちを鎮めるためにコーヒーをもう一杯頼んだが動揺は治まらなかった。

「西梅田こころとからだのクリニック」が入居していた雑居ビルと、犠牲者に手向けられた献花=昨年12月18日、大阪市北区

 昼食をとろうと入った別の飲食店では、テレビが延々と事件について伝えていた。20人以上が巻き込まれたという情報にこみ上げてくる気持ちを抑えられず、ぼろぼろと涙を流した。「ここ、僕が通ってるクリニックなんです」。抱えきれない思いを友人や店の人を相手に吐き出した。
 家に帰ると、真っ先に両親に電話をかけた。「おれは無事やで」。次いで、仲の良い友人に連絡を入れる。「生きてるよ」。自分自身に言い聞かせるように、同じ言葉を何度も繰り返した。その日は一日中、事件のことが頭を離れなかった。被害状況を強調するニュースを目にするのはつらかったが、どうしても目を背けることができなかった。
 「一言で言えば、クリニックは僕にとって『安心できる場所』でした。同じような背景を持って、悩みをもった人たちがいる。自分もここにいて良いんだなと思える大切な居場所。それがまさか、こんなことになるなんて…」。男性は記憶をたどりながら、一つ一つ振り返った。

事件現場に供えられたメッセージ付きのペットボトル=昨年12月29日、大阪市北区

 ▽心の「限界」、背中を押した院長の言葉

 クリニックに通い始めたのは昨年7月。ストレスが高じて感情のコントロールがうまくできなくなったことがきっかけだった。友人ととりとめの無い話をしているだけで涙が止まらなくなったり、急にふさぎ込んでしまったり。周囲からも心配されるようになり、自らを振り返る中で、気が付いた。
 元々は表に出るタイプではないのに、仕事では「こう在るべきだ」と自分に言い聞かせて無理をしていたこと。職場やプライベートの人間関係で深く傷つきながら、気持ちを抑え込んでいたこと。思い返せば、何年も前から感情を抑圧していた。その積み重ねで心身に異変が起きているのだと悟り、クリニックに通うようになった。
 「限界」が来た日のことは今でもよく覚えている。9月10日、金曜日。いつものように仕事をする中で、突然、感情が爆発しそうになった。涙が止まらず、自分だけではどうすることもできない。職場を抜け、その足で西梅田のクリニックに駆け込んだ。「涙は止まらないし、何も考えることができません」。全ての感情を吐き出す男性に、西沢院長は迷うことなくこう告げた。「もう十分ですよ。仕事はもう休みましょう」
 院長の一言で、翌日から休職することを決めた。しばらくは実家で休養し、体調が少し回復すると、職場復帰を目指す人のためのリワークプログラムにも参加するようになった。一緒に参加していたのは、自分と同じような理由で仕事を辞めたり、休んだりしていた人たち。打ち解けるのに時間はかからなかった。認知行動療法に基づくさまざまな取り組みも勉強になったが、何事にも気を使わず、参加者同士でとりとめのない雑談ができる時間が一番ありがたかった。

 ▽人生観も一変、「生きなければ」

インタビューに応じる男性

 最後にクリニックを訪れたのは事件の4日前。心理カウンセラーと話をした後、西沢院長の診察を受けた。穏やかな関西弁の響きは今も耳に残る。「カウンセリングはどうでしたか?」「またリワークにも来てくださいね。職場の方も『ゆっくりで良い』って言うてくれてますから」。院長は話を終えると、次の診察日を2週間後の12月27日に設定し、手元の付箋にその日付を書いて渡してくれた。それが最後の会話になった。
 親身に話を聞いてくれた西沢院長、顔見知りのスタッフ、仲が良かったリワーク仲間たち。何人もの人がたった1人の行動によって突然命を奪われ、二度と会えなくなってしまった。あの日、友だちと会う予定がなかったら、自分もあの場にいたかもしれない。考えれば考えるほど、犠牲者と自分の生死を分けたのは、偶然の重なりでしかないように思われた。「それでも自分は生きている。亡くなった人の分まで、これからも生きていかないといけない」。それまでの日常を奪い去った忌むべき事件によって、曖昧だった人生観は一変した。

 ▽日記帳に書き留めた犠牲者の記憶

元患者の男性が日記帳に記した、西沢院長や患者仲間との思い出

 男性は事件のあった日から、毎日、日記をつけ始めた。ノートの冒頭には、交流のあった犠牲者8人についての思い出を記している。細かいことも思い付くままに、忘れないように、乱れた筆致のまま急いで書き留めた。

(以下は日記の抜粋。A~Dさんは日記中では実名で書かれています)
 Aさん リワークでは何度かペアになって話をした。自分の考えにも共感してくれた。ポケモンを子どもと一緒にやると話していて、楽しそうだった。
 Bさん 若い子。懸命に仕事をしている姿は、今でも思い浮かべることができる。
 Cさん リワークで何度か話したり、同じグループになった。恋活をすると前向きに話していた。自分の境遇を良く聞いてくれた。いい人だった。
 Dさん ラーメンが好きな人。明るくて、よくしゃべって。京都の寺の話や競馬の話、野球の話。話を聞いたという意味では、一番しゃべったかもしれない。
 西沢先生 9/10(金)突然の来院でした。でも、しっかり話を聴いてくださりました。休職の判断をしてくれました。「ゆっくりでええんと違いますかね」「ゆっくり考えたらええと思いますよ」。12/13もいつもの声で「カウンセリングでは話せましたか?」「またリワーク来てくださいね」と言ってくれた。

 今年4月、男性は復職を果たした。職場は予想以上に温かく受け入れてくれた。リワークプログラムを契機に、自分の状況を客観的に見つめることもできるようになった。「以前ほど、細かいことも気にしなくなりました。周りの人にも、言いたいことをどんどんはっきり言うようにしてますよ」。時折冗談を交えながら、リラックスした表情でそう語る。

元患者の男性が西沢院長から受け取った付箋。次の予約日は「12月27日」だった

 しばらくは頑張りすぎないように気を付けながら、友人と会う時間や何げない会話を大切に、一日一日をしっかり生きていきたい。西沢院長に報告する機会はもうないが、最後にもらった次の予約日の付箋は、日記帳にしっかりと貼り付けている。

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