辻噺の伝統残る上方落語、座敷仕方噺としての江戸落語

今でこそ日本の笑いの文化は、さほど地域による違いが目立たないが、それでも地域性がなくもない。というか、地域性を売りにしているお笑いコンビもいる。郷土愛をそのまま名前にした博多華丸・大吉、東北魂のサンドウイッチマン。栃木なまりが看板のU字工事や茨城弁丸出しのカミナリ。みんな愛されキャラだ。

昔、江戸時代と言わなくても、明治、大正時代には、江戸と上方の違いは言葉だけでなく習慣からものの考え方まで、違いが際立っていた。それが、第2次大戦後もかなり長く、色濃く残っていた。それが、冒頭のコンビは例外にして、最近は均一化が激しい。以前、明治は遠くなりにけり、なんて言葉が流行ったが、今や昭和は遠くなりにけりの感が深い。

同じ落語でありながら、上方落語と江戸落語は違うみたい。どこがどんな風に違うんだろう? そんな質問も聞く。上方では高座の道具として、見台、小拍子、膝隠しを使い、噺の中に、ハメ物と称する鳴り物や音曲等を入れる噺も少なくないが、江戸落語には基本それらはない。それは、落語の成立事情の違いによる。

上方は、大道や寺社の境内で発達した辻噺の伝統が残るが、江戸は座敷仕方噺としての性格が影響する。また、落語誕生当時の地域性もある。江戸時代、大坂は商人の町、庶民の町。江戸は武士の町で官僚的であった。江戸は百万都市で、人口は武士と町人が半々。なのに、住まいは江戸の土地の69%が武家地、15%が寺社地、庶民は16%の土地に押し込められていた。

一方、大坂は江戸中期、明和の頃で人口42万人。武家の人口は4000~6000人。大半は大坂城内にいて、あまり街に出てこなかったという。また、江戸は火事が多く、大工等職人仕事も多かったので、近隣の百姓の次男三男が多く働きに来た。で、男が女よりも2~3割も多かったという。そんな土地柄が反映して、江戸っ子は宵越しの金を持たないとか、気風の良さを売り物にした。「大工調べ」や「三方一両損」に出てくる大工や職人は、生きがよくて、粋でいなせだが片意地。一方の大坂、「壺算」にみられる買い物上手だが、計算高く、江戸から見るとちょっとせこい。

両者の違いを落語に見ると、「三方一両損」。左官の金太郎、柳原で書き付けと印形と3両入った財布を拾う。落とし主が竪大工町の大工の吉五郎と分かったので、金太郎が届けに行く。ケンカっ早い吉五郎は書き付けと印形はもらうが、落とした金はもう自分のものでないから持って帰れ、と受け取らない。金太郎も一本気、そんな金が欲しくて届けたのではないと、つかみ合いの大喧嘩。

この展開、大阪人には考えられない。落とした金が戻ったら、おおきにと懐に収める。反対に、届けた金を、落とし主がいらないと言えば、ああさよか、ほな私がもらっときますと、さっさともらって帰る。江戸っ子は、だから上方の人間はこすっからいと批判するだろう。金にこだわるのは無粋だと、江戸っ子は見栄を張り意地を張る。実際、江戸ではそれでも暮らせたのかもしれないが、大阪人は違う。世の中そない甘いことないでぇと現実的。落語的誇張もあるが、地域性が色濃く残っているのも落語。そんな違いを楽しむのも一興だ。(落語作家 さとう裕)

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