「これで長崎は良くなる」 新幹線計画決定・むつ念書 見返りは空手形に

長崎新幹線の軌跡・1

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自民党三役に九州新幹線長崎ルートの早期着工を約束させた「むつ念書」の写し=佐世保市内

 九州新幹線長崎ルート(博多-長崎)のうち武雄温泉-長崎が9月23日、「西九州新幹線」の名称で部分開業する。1973年の整備計画決定から約半世紀。本県の悲願達成までには、さまざまな障壁や曲折があった。その軌跡を関係者の証言でたどる。

 世界最初の高速鉄道、東海道新幹線(東京-新大阪)が64(昭和39)年、華々しく開業した。わが国の東西大動脈として高度経済成長を支え、この成功体験から、69(昭和44)年に閣議決定された新全国総合開発計画(新全総)に全国新幹線構想が盛り込まれた。翌年の法制化を受け、旧運輸省は73(昭和48)年、整備新幹線5路線の整備計画を決定した。
 北海道、東北、北陸、鹿児島-そして、ここに枝線のような長崎ルートが入ったのはなぜか。旧国鉄出身でJR九州初代社長の石井幸孝氏(89)が解説する。「戦前から、陸軍都の熊本を結ぶ『鹿児島本線』と、三菱の造船所や海軍佐世保鎮守府につながる『長崎本線』は九州の二大本線だった」
 時の首相は「列島改造論」を掲げた地方出身の田中角栄氏。「ゼネコンや官僚が新幹線の絵を描き、政治家をたきつけ、地方自治体とも手を組んだ。田中氏が彼ら建設族を利用し総理の椅子を手に入れたとも、建設族が田中氏を利用したとも言える」(石井氏)。赤字ローカル線を作り続けてきた国鉄の借金が膨らむ中、整備新幹線は“金の卵”になるはずだった。
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 だが、オイルショックのあおりで整備計画は5路線とも、わずか1カ月で凍結の憂き目に。ようやく解除された78(昭和53)年、知事だった久保勘一氏が動く。放射能漏れ事故を起こし、寄港先を失っていた原子力船むつの修理を佐世保で受け入れる見返りに、新幹線の優先着工を国に認めさせたのだ。
 「長崎新幹線の工事着工は、他の四路線に遅れないこととする」。簡潔な文言の横に、当時の自民党三役、大平正芳幹事長、中曽根康弘総務会長、江崎真澄政調会長の直筆署名が並ぶ。いわゆる「むつ念書」。副知事だった高田勇氏が党本部に出向き、3人から確約を取り付けた。それを年中、背広の内ポケットに入れて持ち歩いていた。

県新幹線鉄道整備促進期成会の総会でスピーチする久保知事=1978年08月02日、旧長崎東急ホテル

 当時、久保氏の秘書だった横尾英彦氏(84)は、今も写しを自宅に保管している。「これで長崎は良くなる」と上機嫌な知事から「後で役に立つから」とこっそり渡されたという。
 久保氏は参院議員時代、後に首相となる三木武夫氏の派閥に属していた。「上京すると、三木氏の私邸に必ず寄り『長崎県の発展には、どうしても新幹線が必要』と熱弁していた」。横尾氏は、国を相手に堂々と渡り合う久保氏の巧みな交渉術に舌を巻いたと回想する。
 だが、その後の政治の舞台で、むつ念書が効力を発揮することはなく、空手形に終わった。国の財政危機、国鉄の分割民営化と事あるごとに整備計画はストップ。長崎ルートは鹿児島など他4路線の後塵(こうじん)を拝することになる。