核廃絶へ 仲間の志を背負いウィーンに 被団協事務局長 木戸季市さん(82) 届け「ナガサキの声」 核禁会議直前インタビュー<上>

若い世代に「原爆被害の実相を知り、核廃絶に向けた対話を続けてほしい」と願う木戸さん=東京都内

 核兵器の開発や保有、使用を全面的に禁じる核兵器禁止条約の第1回締約国会議が21~23日、オーストリア・ウィーンで開かれる。ロシアの核兵器使用が現実味を帯びるが、同条約に署名、批准していない日本政府はオブザーバー参加もしない。同会議は果たして、核廃絶への道しるべとなるのか。「ナガサキの声」を届けようと、現地に向かう被爆者や高校生の姿を紹介する。

 77年前。原爆は人々の営みも、街の歴史も、一瞬で焼き尽くした。長崎で被爆した木戸季市さん(82)=岐阜市=は「あの日」の記憶に顔をゆがませた。
 「誰が、どこで亡くなったかも分からない。人が生きた証しすら残さなかった。そんな『死』ってありますか」。生き残った人も放射能被害や心の傷を背負わされた。人間らしく生き、人間らしく死ぬことを否定した原爆。その「非人道性」を自らの言葉で訴えるつもりだ。
 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局長としてウィーンへ派遣される。締約国会議に出席するほか、現地で20日開催される「核兵器の非人道性に関する国際会議」では被爆体験を証言する予定だ。
 爆心地から約2キロの長崎市旭町(現光町)にあった自宅近くで被爆した。当時5歳。「記憶を語れる最後の世代」との自覚がある。
 一緒にいた母は顔全体と胸を熱線で焼かれ、木戸さんも顔の左半分にやけどを負った。防空壕(ごう)で一夜を明かし、避難中に爆心地周辺を通った。無数の黒焦げ遺体。水を求め息絶える人。跡形もない街並み-。目の当たりにした光景は今も頭にこびり付いている。
 かねて自身を「3回被爆者になった」と表現してきた。最初は1945年8月9日。2回目は原爆被害の実相を掲載した写真誌を見て、自分も被爆者なのだと理解した52年。3回目が岐阜市の大学教員だった91年、岐阜県に被爆者団体を立ち上げ、被爆者運動に身を投じた時だった。
 現在は「四つ目」のステージにいるという。核廃絶運動の成果として、悲願の核兵器禁止条約が動き始めた。一方で被爆者は高齢化し、相次いでこの世を去っている。「残された人生を核兵器のない世界をつくるために生きなければ」とあらためて強く思う。
 「多くの被爆者は悩み、苦しみながらも、原爆の非人道性を訴えてきた。核なき世界を目指し、実現することこそ、人間らしさを取り戻すことだ」。条約成立に尽力した山口仙二さんや谷口稜曄(すみてる)さんら、亡き被爆者たちの志も背負ってウィーンに立つ。
 核大国ロシアのウクライナ侵攻で「若い人も被爆者になる可能性がある」と危惧する。ウィーンでは現地の若者とも交流し、こう願いを託すつもりだ。「核兵器が人間に何をもたらしたのか事実を知り、自分で考え、廃絶に向けた対話を続けてほしい」。そして生ある限り、訴え続ける。「長崎を最後の被爆地に」と。


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