頭の中をライヴ会場に変えてしまう圧巻のグルーヴと熱狂を記録したエリス・レジーナの傑作『イン・ロンドン』

『Elis Regina In London』(‘69)/Elis Regina

前回の『エリス&トム(原題:ELIS & TOM)』(‘74)に続き、ブラジルが誇る伝説の女性シンガー、エリス・レジーナが残した、もうひとつの名盤を紹介します。
※ エリスの主な経歴については前回のテキストの中で紹介したので省きます。

今回は彼女の通算14作目、英国ロンドンでレコーディングされた『イン・ロンドン(原題:Elis Regina In London)』(’69)です。誰もが認めるエリスの代表作であり、グルービーでハジけるエリスが好きな方はこれを推すという声も多いでしょう。また、ボサノヴァの名盤中の名盤としてこのアルバムを選ぶ方も多いはずです。

60年代後半からジャズ界を中心に 注目されだしたブラジル音楽

少し、1969年という年を振り返ってみたいと思うのですが、人類が月に降り立ったこの年の音楽界での一番の話題となると、ロックやフォーク、ポピュラー音楽に限って言えば、同年8月にアメリカ、ニューヨーク郊外べセルの農場で開催された愛と平和の3日間、『ウッドストック・フェスティバル』となるでしょう。今日のフェスブームのルーツとも言うべき、野外音楽フェスのお手本となったビッグフェスですが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、スライ&ファミリーストーン、CCRほか、錚々たるスターが出演したことからも分かるように、時代は完全にロックを中心としたものに染められていたと言うべきでしょうか。

加えて言うならば、ミュージシャン、アーティストの活動もレコードだけでなく、ライヴというパフォーマンスを含めたものが大きな比重を持つようになってきた時代でした。そのライヴが行なえなかったビートルズはそろそろ活動に終止符を打ち、逆にローリング・ストーンズはブライアン・ジョーンズに代わってミック・テイラーを加えて世界最高のライヴバンドと称される黄金時代を迎えようとしていました。

一方、ジャズに目を向けてみると、とにかくこの頃、その動向から目を離せないひとりがマイルス・デイヴィスでした。ちょうど、69年から70年にかけてエレクトリック編成に移行したマイルズ・デイヴィスが制作した『ビッチェズ・ブリュー(原題:Bitches Brew)』(’70)はジャズの流れを変革する問題作で、その音楽にはジャズという枠を越えてロック、ファンク、ブルース、アフリカ、そしてブラジル音楽が混沌とした状態で混ぜ合わせられているといったふうでした。実際にマイルスはブラジル音楽に相当入れ込んでいたそうで、このアルバムにもブラジル人のパーカッショニスト、アイアート・モレイラ(元クアルテート・ノーヴォ)がセッションに参加しているほか、翌年に出たライヴとスタジオレコーディングを収めた『ライヴ・イヴル(原題:Live-Evil)』('71)にはアイアートのほか、ブラジル音楽界きっての鬼才エルメート・パスコアール(いつか代表作を紹介します!)を迎えるほどでした。また、アコースティック・クインテット時代のメンバー、サックスのウェイン・ショーターには噂か本当か「エルメートやアイアート、それからエリス・レジーナの動きに目を離すな」と、助言をしたという噂話が残っています。リオデジャネイロ出身で、60年代から活動し、アメリカに渡ってから頭角を表したミュージシャン、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーのデオダート(Eumir Deodato)も米ジャズ界にブラジリアン・フュージョンの新風を吹き込むなど、マイルスのみならず、ブラジル音楽は確実に大きな影響力を持つものとして認知されるようになっていました。

さて話題を主役のエリス・レジーナに戻すと、彼女が初めて渡欧したのは1968年のことだそうです。すでに本国では絶大な人気を誇り、前評判も上々のなか、フランス(カンヌ)を皮切りにイギリス、スイス、スウェーデン、ベルギー、オランダと回るツアーは大規模なものとなり、気合い十分のエリス一行はそれまで知られていなかったブラジル音楽の底力を見せつけたと言われています。実際にパリ・オランピア劇場でのパフォーマンスでは、6回のアンコールがあったそうです。それもあって、翌年、再び公演要請を受けてエリス一行は渡欧したのでした。

私を聴け!という気合いと 野心みなぎるセッション

ツアーの途中で組まれた『イン・ロンドン』のレコーディングセッションはたった2日間で仕上げられています。クラシック出身の作曲家、指揮者で、映画音楽の仕事もしているピーター・ナイト率いる46名からなるオーケストラと、エリスのツアーバンドの5名が一堂に会し(初対面)、エリスはオーケストラをバックになかば一発録りというライヴ録音のスタイルでセッションは行なわれます。収録曲は主に近作『エリス・エスペシアル(原題:Elis Especial)』(’68)、『コモ・イ・ボルケ(原題:Elis ,Como E Porque)』(’69)から選ばれている。特にアルバム『エリス・エスペシアル』にはバーデン・パウエル、ジルベルト・ジル、エドゥ・ロボ、シコ・ブアルキ、ドリー・カイーミといった旧来のブラジル歌謡とは一線を画す新しいMPB(モダン・ポップ・ブラジル)のアーティストによる作品が選ばれていて、今日的と言いたくなる、楽曲の斬新さも感じ取れる。ツアーバンドのほうはすでにライヴだけでなくレコーディングも共にするなど完全に気心知れた関係で、まさに阿吽の呼吸。一方のオーケストラも、おそらく事前にアルバム収録曲となるセットリストは渡されていたであろうし、スコアに起こされたものを、ピーター・ナイトをはじめオケ・メンバーも目を通して曲想を把握していたと思われます。それでも、わずか2日でここまでのものを仕上げるのだから、なかなか見事な仕事ぶりと言えるでしょう。
※『イン・ロンドン』のテイストをライヴとするなら、スタジオ・バージョンともいうべき佇まいの『エリス・エスペシアル』。その、共通する収録曲のアレンジの違い、疾走感の差を楽しむのも一興かもしれない。

ロンドンのトラファルガー広場だろうか。鳩と戯れながら、屈託のない笑顔でフレームに収まっているエリスの姿がジャケットに使われています。

冒頭、「帆掛け舟の疾走(原題:Corrida De Jangada)」から、天空に飛び立っていくようなエリスの声、そして疾走するように演奏陣が追いかけていくさまのクールなこと! この一曲だけで体が前のめりになること必至。続く、珍しく英語で歌われる「ア・タイム・フォー・ラヴ(原題:A Time For Love)」の静と動の巧みな歌いこなしも見事。さらに圧巻のスピードですっ飛ばしていく「もし、そう思うなら(原題:Se Voce Pensa)」のカッコ良さと言ったらない。ツアーバンドのリズム隊のグルーブもすごい。アンサンブルと非の打ち所のない調和で魅せる「Giro」、スローテンポでアンニュイなニュアンスを表現してみせる「帰り道(原題:A Volta)」のヴォーカルの巧みさにはため息が出てしまうほど。

唯一ヴォーカルのオーバーダブを加えた「ザズエイロ(原題:Zazueira)」、舌を噛みそうなポルトガル語の歌詞を圧巻の歌唱力でこなす「ウッパ・ネギーニョ(原題:Upa, Neguinho)」、スペインの劇作家、ガルシア・ロルカの詞にフランスの作曲家ミッシェル・ルグランがメロディをつけた「瞳を見つめて(原題:Watch What Happens)」は、本来はフランス語で歌う予定だったそう。そして、アントニオ・カルロス・ジョビンの「Wave」はオリジナルのジョビンのもの、本作の直前にレコーディングした米国人ジャズミュージシャン、トゥーツ・シールマンスとのデュオ作『ブラジルの水彩画(原題:Aquarela Do Brasil)』(’69)収録のバージョンより、格段にグルービーな仕上がりに。盛大なリズム隊にあおられるように、どこまでも弾けていくエリスの沸騰するようなエネルギーに圧倒されるラストの「小舟(原題:O Barquinho)」まで、まさに息もつかせぬ12曲。初めて聴いた時はエンディング後、放心状態になったものです。

当時、エリスは24歳、若さみなぎる声は伸びやかで、歌手キャリアとして、ひとつの到達点、沸点に達したような感を受けました。それにしても凄すぎるテンションにグルーブ。加えて、何かやってやるぞという「気合い」のようなものを歌声の裏に感じてしまうのは深読みが過ぎるでしょうか。

これは憶測ですが、ロンドンでは公演とレコーディングの合間に、同じMPB仲間であり、共演や曲を取り上げたりした関係にあったカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルと面会する機会はあったのでしょうか。ふたりは前年にロンドンに亡命しています。女性シンガーのナラ・レオンも彼らに続いてロンドンに渡っています。彼らは時の軍事政権に反発し、デモに参加するなどし、弾圧の対象になっていたのです。トロピカリズモ(Tropicalismo)と呼ばれることも多い、芸術家を中心とした抵抗運動に対し、独裁政権は執拗な締め付けを行なったといいます。
※ブラジルと同じ母国語であるポルトガルではなく、カエターノたちが亡命先をロンドンを選んだのは、やはりビートルズをはじめとするロックの生産地の空気を感じ取りたいという探究心が働いたのでしょう。

実はエリス自身も政権側からマークされていました。開けっぴろげなエリスの性格は、言いたいことを言ってしまうし、インタビューで「今の政府はブタが支配しているわ」と答えたりしていたのですね。腐敗政治を皮肉った替え歌をレコーディングして発禁になったりもしています。だが、エリスが逮捕されたり、直接的な弾圧を受けなかったのは、エリスがあまりにも全国民的な人気歌手であったため手が出せなかったのだとか。ただ、しっぺ返しが全くなかったわけではなく、エリスは軍の体育大会に呼ばれて、不本意ながら国歌を歌わされたりしたようです。反体制側からはそれを裏切りであると、揶揄されたりもしたというのだがエリスの気持ちはMBPの仲間に寄り添っていたはず。きっと、ロンドンに着いた時には、彼女も故郷を追われてこの街に流れた音楽仲間のことを思い浮かべることがあったはずだし、彼らがいるこの街で最高の歌を響かせてやろうじゃないかと思ったのでは? …と勝手に想像するわけです。

それから、この傑作『イン・ロンドン』は驚いたことに、英国やヨーロッパ各国では発売されているものの、本国ブラジルではお蔵入りとされ、発売が叶ったのはなんとエリスの死後、1982年になってから。その理由は明らかにされていないのですが、各国で絶賛され、エリスの代表作とされただけに、何か腑に落ちないものを感じてしまいます。

1990年代に本作が日本でリイシューされた当時、クラブシーンで口づてにアルバムの凄さが伝わり、エリスの再評価、過去のアルバムの再発売につながっていったそう。私も含め、その頃にエリスを知った人も多いと思います。あれからでも、結構な時間が経っているけれど、忘れられない名盤であり、私のようにときおりアルバムに手を伸ばしているのではないでしょうか。

2作連続でブラジル音楽の永遠のミューズ、エリス・レジーナの名盤を紹介しました。この機会にぜひお聴きください!

TEXT:片山 明

アルバム『Elis Regina In London』

1969年発表作品

<収録曲>
1. コヒーダ・ヂ・ジャンガダ(帆掛け舟の疾走)/CORRIDA DE JANGADA
2. ア・タイム・フォー・ラヴ/A TIME FOR LOVE
3. もし、そう思うなら/SE VOCE PENSA
4. ジーロ/GIRO
5. 帰り道/A VOLTA
6. ザズエイロ/ZAZUEIRA
7. ウッパ・ネギーニョ/UPA NEGUINHO
8. 瞳を見つめて/WATCH WHAT HAPPENS
9. ウェイヴ/WAVE
10. ハウ・インセンシティヴ/HOW INSENSITIVE
11. ヴォセー/VOCE
12. 小舟/O BARQUINHO

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