「1歳ではぐれた妹の生きた証」77年経て平和の礎に刻銘、涙あふれる 姉の知念正子さん

 沖縄県は20日午前、糸満市の平和祈念公園内の平和の礎に戦没者55人の氏名を刻んだ新たな刻銘板を設置した。1945年当時、5歳だった那覇市在住の知念正子さん(81)は、沖縄戦下ではぐれたまま再会を果たせなかった妹の神山スミ子さん=当時1歳=の名前を刻むことができた。「戸籍上は出生日も死亡日もないが、妹が生きた証しを残したい」。知念さんの思いが77年の時を経て実現した。

 スミ子さんは1943年生まれ。出稼ぎのため家族で住んでいた南洋から戻ったばかりの混乱期で、出生届は出せていなかった。45年、沖縄戦が始まり、当時住んでいた北谷村久得(現在の嘉手納町久得)から、北部に向けて家族で逃げようとした。だが母と兄とスミ子さんは大事な物を取りに行くと言って自宅に戻り、離ればなれになった。知念さんは祖母と一緒に恩納村に避難した。

 戦後、米兵に保護されて移った収容所で家族と再会を果たすが、そこにスミ子さんの姿はなかった。母や兄と逃げ惑う中で亡くなったという。

 終戦から3年後、スミ子さんの死亡場所や状況を聞けないまま、母は亡くなった。

 戦後は生活に必死で、礎の建立後も刻銘申請はできないまま月日が流れたが、スミ子さんのことはずっと心に引っかかっていた。

 20年前、刻銘申請を試みて県に問い合わせたが、当時の担当者から存在の証明が必要と言われ、申請できずじまいに。今回は親族の助けもあり、位牌(いはい)の写真を頼りに再度申請し、刻銘がかなった。

 「もし生きていたらどんな人生だっただろう。せっかく生まれてきたのに戦争のために短い命で亡くなった。二度とああいう戦争は起きてほしくない」。姉妹の思い出を刻めなかった悔しさに、涙があふれた。

(中村優希)
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