「けがばかりの野球人生」を乗り越える力は読書で得た。元ソフトバンク内野手の小久保裕紀氏 プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(2)

2001年の近鉄戦で本塁打を放つ小久保氏。同年はシーズン自己最多の44本塁打をマークした

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第2回は元ソフトバンク内野手の小久保裕紀さん。読書家の一面があり、現役時代の度重なる負傷も本で得た意識の変化で乗り越えた。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽英語の勉強がはかどった

 2020年4月に最初の緊急事態宣言が発令された時は、人との接触を8割減らすということになったので、実際に出かけるのも妻の買い出しの手伝いに行く程度にとどめた。コロナ禍の外出自粛がなければ一生することがなかったであろう、DIY的なこともした。自宅のベランダ一面を妻と2人で貼り替えたのだ。はめ込んでいくだけの、素人でもできるタイルが売られているので。

1992年バルセロナ五輪の米国戦で生還する小久保氏。日本代表に学生でただ一人選ばれた

 20年の年明けから始めた英語の勉強も、すごくはかどった。長年、英語の習得だけはしたいと思っていた。手術やリハビリなどで米国にたびたび行き、日常生活で困らないぐらいはできていたけれども、もうちょっとちゃんとしたものを身に付けたいなと。たまたま自粛になったので、勉強時間はそれまでの倍ぐらいになった。人生で結局、投げ出してやりきれていないことが僕の中では英語だった。自主トレも13年ぐらい海外で続け、その時にいつも(学習意欲の)スイッチが入っては、帰国して必要ないからやめての繰り返しだったから。外国選手とも普通にコミュニケーションを取れるぐらいはやりたいと思った。

 ▽自分の置かれた現実を受け止める

 8度も手術を受ける、けがばっかりの野球人生だった。自分自身のプレーができないフラストレーションもたまるが、復帰までの段階は一歩ずつ着実に事をこなすしかない。一番しなくてはいけないのは、今の自分の置かれた現実を受け入れることだった。数々の負傷で、それを受け入れられる自分が出来上がった。起こることが必然であり必要であり、振り返ると実はベストのタイミングで訪れるのだという人生観が根付いていると感じたのは、右膝を大けがした2003年。それほど落ち込まずに、すんなり手術、リハビリに移れた。

2003年に西武とのオープン戦で本塁突入時に膝を痛めた小久保氏。靱帯損傷の重傷でシーズンを棒に振った

 悪い時にいかに前へ進めるかというところに、人間の後ろ姿の違いが出てくると思う。右肩上がりや順風満帆な人の後ろ姿は、ほとんど一緒だろう。逆境で生きざまが垣間見える。思うようにいかない場合、どう振る舞えるか。王貞治さんに「チームを背負うような選手は調子が良くない時ほど、若い選手に見られていると意識しなさい」と言われ、現役の時はずっとそのことを考えてプレーしていた。

 ▽空き時間の使い方が分かれ目

 本は普通の小説など、結構読んでいたが、プロ入り3年目の大スランプの時、ある自己啓発の本に出会った。買ってもいないのに、人からもらって同じ本が2冊手に入り、「これは読みなさい」というメッセージだと直感的に捉えた。その著者のファンになり、新書が出るたびに買ったので書斎に30冊ぐらい並んでいる。福岡が本拠地のホークスは関東の球団に比べると、はるかに移動の距離と時間が長い。僕は移動の際、疲れていれば寝る、それ以外は本を読むと決めごとにしていた。それが自分の身になった。
 

1998年、右肩痛のためオールスター戦の出場辞退を発表する小久保氏

 死球で3回ぐらい肋骨を折られた。そうなると、相手に要因を求めたくなる。それでも長い野球人生に必然なことだったと思わざるを得ないぐらい、切り替えないと進めない。それほど実はけがが多かった。嘆いてもしょうがないという心境になっていった。もちろん時間はかかった。本当に心の底からそう思えて生きているなと感じられたのは、前述の本に出会って10年くらいしてからだ。
 自分を高めるために時間をどう使うか、先輩も後輩も見てきたが、やっぱり、その選手の分かれ目。24時間の中で空いている時間は絶対にある。その時間に何をしているかは結構大きい。いかにより良い人生を歩むために考えて動けるという人と、気の赴くまま欲望のまま過ごしてしまっている人とでは当然、差が出てくる。僕の場合は、たまたま本を読むと決めた。体を手入れするために充てるという選手もいて、それはさまざまだが、隙間の時間の使い方はポイントになると思う。

 ▽最後もこんなことが待っていたとは

 

 

2012年に2千安打を達成。王球団会長から名球会のブレザーを贈られる小久保氏

 現役最後の12年に2千安打を達成した。正直、そのシーズンは腰がおかしくて、もう真っすぐ上を向いて寝られない状態で試合に出ていた。(残り1安打になり)座薬を入れて、秋山幸二監督に無理を言って使ってもらい、取りあえず1本どんな形でもいいから打ってから治療しようと思って挑んだ。だが、ヒットどころか歩くのもやっとみたいな状態。もちろん優勝争いをしていて、僕の記録のために試合があるわけではない。秋山監督に呼ばれて「気持ちは分かるけども、一回休め」と言われた。
 頭の中に浮かんだのは、あと1安打から達成まで、一番長い期間かかった選手になるんじゃないかということ。最後の最後も自分らしく、こんなことが待っていたかと客観的に見る冷静な自分もいた。ただ、予想以上に患部が悪すぎて全然治らなかったので焦った。復帰初戦で2千本目を打つのに約1カ月も空いた。椎間板ヘルニアが本当にぽこんと出てしまい、引っ込むまでかなり時間がかかったので。

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 小久保 裕紀(こくぼ・ひろき)和歌山・星林高から青学大に進み、1992年バルセロナ五輪で銅メダル。94年にドラフト2位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年に本塁打王、97年に打点王に輝く。現役最後となった2012年の6月に2千安打を達成。通算2041安打、413本塁打、1304打点。13年10月から17年3月まで日本代表監督。71年10月8日生まれの50歳。和歌山県出身。

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