人情噺 期待の星だった桂福車 突然の死

2020年は子年。ネズミの出てくる噺をと探していたら、なんとネコの噺の多いこと。それでも幾つかあるネズミの噺の中から、ずばり「ねずみ」というお噺を。

左甚五郎が奥州を旅していると、小さな子供がうちに泊まってくれと袖を引く。ちっぽけな宿屋で、甚五郎から預かった20文で客用の布団を借りてくるという貧乏ぶり。聞くと、元は向かいの虎屋という大きな旅館の主だった父親が腰が抜けて動けなくなったのをいいことに、番頭に乗っ取られたのだと。親子は生駒屋の世話になっていたが、心苦しいので生駒屋の物置を借りて、鼠屋という宿屋を始めた。甚五郎は一匹のネズミを彫り、盥に入れ、上から竹網をかぶせ、福鼠と名付け、「このネズミをご覧になった方は鼠屋にお泊りのほどを」と書き添えた。ネズミが動くと大評判になり、鼠屋は大繁盛。裏の空き地に建て増しをして大きな宿屋に。一方、虎屋は乗っ取り話が広まって閑古鳥。困った虎屋は大きなトラを彫ってもらい、ネズミを見下ろす屋根に上げた。と、ネズミはぴたりと動かなくなった。

鼠屋の主人は立腹して、「チクショウ!」と言った途端に腰が立った。そこで、甚五郎に「あたしの腰が立ちました。ネズミの腰が抜けました」と手紙を書いた。 心配した甚五郎がやって来て、ネズミに「おれはお前を彫る時、魂を打ち込んで彫り上げたつもりだが、あんなトラが怖いかえ」「え、あれトラですか。あっしはネコだと思いました」。

よく出来た噺だ。元は広沢菊春がやっていた浪曲を、3代目桂三木助が「加賀の千代女」と交換して、落語に移し替えたものという。桂福車が、私が世話役をしていた「中央区落語会」でかけてくれたことがある。

福車とは、1992年から森乃福郎師らと一緒に立ち上げた新作落語集団「落語一番搾り」で10年近く一緒に活動。2002年からは「世界初おもろいお説教落語」でも共に活動した。 福車はなかなかの論客だが角が多く、近寄りがたい印象だった。が、付き合ううちに一本気で正義感が強く、裏表のない好漢であることがわかった。月1回の新作落語台本を検討する会では、彼の指摘は的確で、演じても切れ味鋭いギャグと語り口でよく受けた。ただ、当時は福車もまだ若く、古典を演じると若さが前に出て、やや滋味にかけ、物足らない噺もあった。が、月日を重ねるうちに師匠福団治譲りの味が出て来た。福団治師匠は上方で人情噺の第一人者、ぴか一の名人。先述の「ねずみ」を聞いて、福車も人情噺に説得力が出てきたなあ、これからいい味が出るだろうと、楽しみに思った。
その矢先、2018年2月1日に突然亡くなった。死因は公表されていないが、自殺したとか。そのひと月前に3人で忘年会をしたのが最後になった。

2011年2月10日岩手県民会館でお説教落語を依頼され、前日から盛岡市に乗り込み、近くの居酒屋で痛飲した。締めに食べた海鮮ラーメンで二人とも軽い食あたり。翌朝、青い顔でホテルのロビーで顔を合わせ、苦笑い。何とか無事に公演を済ませた思い出がある。

中央区落語会でも大ネタの「らくだ」を千日前の火屋(火葬場)の場面まで、1時間超の熱演をしてくれたこともある。これからの噺家であっただけに残念でならない。合掌。(落語作家 さとう裕)

© 株式会社うずみ火