それでも鎌倉武士なの!?妻の言葉で大きく変わった毛利季光の運命【鎌倉殿の13人 後伝】

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武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候。

※萩生某『朝倉宗滴話記』より

やれ誇りだ何だと言っても、負けてしまえばすべて踏みにじられてしまうのだから、まずは勝たねば意味がありません。

確かに歴史は勝者によって書かれるもの……であるならば卑怯でも何でも勝ちさえすれば、誇りなんて後からいくらでもでっち上げられてしまいます。

敗れてもなおカッコいい者もいるが、ごく少数である。畠山重忠の最期。月岡芳年筆

だから勝者は常にカッコよく、敗者は大抵カッコ悪く描かれがち。しかしそれで世の人は騙せても、お天道様はすべて見てござるもの。

たとえ敗れ去ろうと、やはり義を重んじてこその武士……そこで今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、毛利季光(もうり すえみつ)のエピソードを紹介したいと思います。[(#i-3)

承久の乱で大武勲、その後も幕府の中心で活躍

毛利季光は鎌倉時代初期の建仁2年(1202年)、大江広元(おおえの ひろもと)の四男として誕生しました。

父から相模国毛利荘(現:神奈川県厚木市)に所領を与えられ、毛利季光と名乗ります。

通称は四郎、元服して時の鎌倉将軍・源実朝(みなもとの さねとも)に仕えました。しかし建保7年(1219年)に実朝が暗殺されると18歳の若さで出家することに。

名前も入道西阿(せいあ)と法号に改めますが、ここでは分かりにくいため以下も季光で統一します。

宇治川の合戦。『承久記絵巻』より

とは言えこれで現役を退いた訳ではなく、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)方と戦い、木曽川・宇治川・淀川と武勲を重ねたのでした。

こうした功績によって安芸国吉田荘(現:広島県安芸高田市)の地頭職を与えられ、天福元年(1233年)には執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)から鎌倉幕府のブレーンである評定衆に加えられます。

寛元4年(1246年)には第5代鎌倉将軍・藤原頼嗣(ふじわらの よりつぐ)の甲冑着初式(男子が初めて甲冑を着る儀式)を執り行う名誉に与かりました。

こうして将軍家と執権北条氏に近しく鎌倉幕政を支えてきた季光ですが、妻の実家である三浦氏が幕府に対して叛旗を翻します。時は宝治元年(1247年)、後世に言う宝治合戦です。

それでも武士ですか……妻の叱咤に決断する

かねて執権北条氏による政治主導に不満を募らせてきた三浦泰村(みうら やすむら。義村の次男)・三浦光村(みつむら。同じく四男)兄弟。第4代執権・北条経時(つねとき。泰時の孫)が亡くなり、弟の北条時頼(ときより)が第5代執権となって間もないタイミングでの挙兵でした。

北条と三浦のどちらに味方するべきか……季光は北条を選びます。妻には申し訳ないけど、大義名分と言い勝算と言い、どう考えても三浦に与して勝算は見込めません。

いざ出陣……と甲冑をまとって軍勢を率い、(将軍家と北条氏に味方するため)御所へ向かおうとしていた季光を見た妻は、鎧の袖を引いて訴えます。

「我が兄・若狭守(三浦泰村)を棄てて左親衛(北条時頼)に味方するなんて、それが武士のなさることですか。いざ有事に助け合うとの約束を違えては、後世に恥を残すことになりましょう」

【原文】損若州參左親衛御方之事者。武士所致歟。甚違年來一諾訖。盍耻後聞兮哉者。

【読み下し】損若州(じゃくしゅうを損じて)參左親衛御方之事者。武士所致歟(さしんゑいが御方に参ずるのことは、武士のいたすところか)。甚違年來一諾訖(甚だ年来の一諾にたがいをはんぬ)。盍耻後聞兮哉者(なんぞ後聞を恥じざらんや)。

……主君への忠義と義兄弟の絆。天秤にかけて悩んだ季光でしたが、妻の叱咤に背中を押されて三浦方への参戦を決意。果たして乱戦の中で命を落としたということです。

終わりに

巳尅。毛利藏人大夫入道西阿着甲冑。卒從軍。爲參御所。打出之處。彼妻〔泰村妹〕取西阿鎧袖云。損若州參左親衛御方之事者。武士所致歟。甚違年來一諾訖。盍耻後聞兮哉者。西阿聞此詞。發退心加泰村之陣。

※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月5日条

宝治元年(1247年)6月5日、北条との決戦に敗れた三浦一族は御所の北山(現:北条義時法華堂跡)にあるやぐらで自刃。その数は500余名にも上り、法華堂も焼けてしまいます。

かくして有力御家人らを一掃した北条時頼。源頼朝(よりとも)の死によって始まった御家人たちの内部抗争にひとまず終止符が打たれ、執権北条氏による実質的な独裁体制が幕を開けました。

ところで季光には毛利経光(つねみつ)という四男がおり、宝治合戦の後に安芸国吉田荘へ移住します。

その子孫に戦国時代、中国の覇者として有名な毛利元就(もうり もとなり)を輩出。大いに活躍したのはよく知られるところですが、それはまた別の話し。

話を戻して、いっときこそ揺らいだものの、武士の誇りを胸に散華した毛利季光。その墓所は父・広元の隣(三浦やぐら・北条義時法華堂跡の上)にあり、その遺徳を偲ぶ人々が時おり参拝に訪れています。

※参考文献:

  • 細川重男『論考 日本中世史 武士たちの行動・武士たちの思想』文学通信、2022年3月
  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年11月