「責任」は母親だけ? 産んだばかりの娘を死なせ… 裁判と20回の面会から 「やって欲しかったこと…」の意味

ベトナム人技能実習生スオン・ティ・ヴォット(以下、スオン)が、産んだばかりの子を死なせて遺棄した事件…。発覚から1年半以上たって出た、「懲役3年執行猶予4年」という判決は、今月確定しました。

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ベトナム語の通訳を介して実質6日間開かれた裁判では、スオンが「した」こと、そして「しなかった」ことが明らかになりました。

「保護すべき責任があった」のは有罪となった母親だけだったのか…、子どもの父親は表舞台に立たされることなく、裁かれることはありませんでした。

拘置所でスオンと私が重ねた20回の面会。「こんな事件にならないために、日本は、あなたに何をすれば良かったのかな?」という問いに、「やって欲しかったことはいっぱいある」と投げつけた言葉の意味とは…。

(参考 なぜ、産んだばかりの子を死なせ遺棄? 知りたくて拘置所へ17回

◆事件発生~平穏な田園地帯で何があったのか~

事件が起きたのは、2020年11月11日のことです。広島県東広島市の民家で、その家を会社の寮として暮らしていたベトナム人技能実習生のスオン(当時26)が、1人で子どもを産み、生まれたばかりのその女児を放置して死なせ、敷地内に埋めました。翌日遺体が発見され、彼女は逮捕されます。その年のクリスマスイブに起訴。罪名は「保護責任者遺棄致死」と「死体遺棄」でした。

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2人の子をもつ私はこの事件を聞いて、生まれてすぐの赤ちゃんを埋めるという行為に至る前に、たった一人で母となった瞬間の女性の状態を想像して、もし自分だったら…とゾッとしたというのが正直な気持ちでした。そして、なぜか罪悪感のようなものを感じて、被告となったスオンとの面会を重ねました。

知りたかったのは3つのこと…1つめは、彼女が実際に何をして、何をしなかったのか、ということ。2つめは、その時々でどんな気持ちでいたのか、ということ。そして3つめが、なぜ周囲に助けを求めなかったのか、という点でした。

◆幼い子どもを育てるためにベトナムから日本へ?

スオンは、ベトナムの首都ハノイから60kmほど北東にあるバクザン省出身。実家は米を作って暮らしていて、母親は彼女が小さい頃から台湾に出稼ぎに出ていました。だからでしょうか?外国で働くことには抵抗感がなかったようで、実はスオンには幼い娘がいましたが、シングルマザーとしてその子の養育費を稼ぐためにも日本に来た、ということでした。

家族は、彼女が日本に来るための渡航費や日本語研修の費用、その間の生活費などを含めて、約150万円の借金をしたそうです。彼女は元々製造分野での就労を希望していましたが審査に通らず、希望分野を「農業」に変更した7度目の申請でようやく願いが叶ったといいます。矛盾だらけのように聞こえますが、現在全国に20万人以上いるベトナム人技能実習生の多くが、こういった借金まみれの状態から、それでも取り返せるほど稼げることを期待して、日本で働き始めるそうです。

スオンの場合、1日休憩を含めて9時間働いて、手元に残る給料は多い時で11万円。そこから2か月ごとに18万円ほどをベトナムの家族に仕送りしていた、といいます。事件当時、残っていた借金の額は100万円程度だったということです。

◆面会室ではいつも「事件のことは裁判で話す」

スオンが来日したのは2019年12月。故郷で半年間、広島でも約1か月間、集団生活をして日本語を学んだといいますが、彼女の日本語は、「カタコト」までもいかないレベルでした。勉強は嫌いじゃないけど、文法が難しい。彼女は何度か苦笑いして言いました。

翌年1月から働き始めたのは東広島市内の農園。「職場の人は優しかった」と彼女は言いますが、深いコミュニケーションはできなかったようです。仕事自体は見よう見まねでできることも多く、単純作業の要領は良かったと思われていました。会社の寮となった民家には、もう1人の技能実習生の女性と2人で暮らしていました。「仲は良かった」と言うものの、具体的なエピソードは語られませんでした。家族とは、毎日のようにFacebookでビデオ通話していましたが、「心配をかけたくない」という気持ちから、父や母に悩みを相談することはなかったそうです。休日には、スマホでベトナムのドラマをずっと見てい.た、と話しました。

裁判が始まる前までの面会では、スオンは、日本に来るまでこうしたいきさつは話してくれましたが、事件については、何度聞いてもほとんど何も語らず、いつも「裁判で話す」と答えるばかりでした。

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◆証言台で彼女は…長い沈黙の理由

2022年5月16日、事件から1年半も経ってやっと始まった裁判員裁判は、ベトナム語通訳を介して実質6日間開かれました。

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そのうち2日間に渡って行われた被告人質問でスオンは、簡単な問いにはスラスラと答える一方で、質問を聞き返したり、長い間沈黙したりすることが何度もありました。

類推して答えることもなく、当時わからなかったことには「わからない」と答え、「はっきりとは覚えていないが、だいたいでもいいか?」と確認することも。なるべく正確に・正直に言葉を選んでいるように見えました。

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聞き返しや長い沈黙があまりに続くようになると、裁判は短く休廷することがありました。休廷になると、被告人は証言台から被告人席に戻ります。一度、まさに赤ちゃんに何をしたか、という聞き取りの途中に挟まれた休憩で、彼女が席に戻りながら、申し訳なさそうな顔をして「振り返るのは悲しいことで、声に出して答えるのが辛いです」と、通訳の人を介して弁護人に伝えているのが聞こえてきました。

裁判では、多くのことが明らかになりました。彼女の「した」ことと「しなかった」ことがクリアになり、田園地帯で「何があったのか」が見えてくると同時に、彼女の周りに「何がなかったのか」も浮かび上がってきました。

◆病院には行った…のに

2020年3月、スオンは生理がこなくなったことから妊娠を予感し、2か所の産婦人科を訪ねていました。1か所目は、広島市内のクリニック。妊娠初期だった彼女は、保険証を提出し、スマホのアプリを使ったり、日本語のできるベトナム人の知人に電話で通訳してもらったりして「自分が妊娠しているかどうかの検査を受けたい」という希望を伝え、受付を済ませ、医師に診察され、妊娠を確認することができました。

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取材に対し、診察した医師は、警察からの捜査を機にスオンのことを思い出したと話し、「診察室で翻訳アプリは使わなかったが、やりとりには不具合を感じなかった」と話してくれました。そして、「赤ちゃんを産むか産まないかは、(中絶が可能な)妊娠22週までによく考えるように」と伝え、そのクリニックにはどちらにしても設備がないため、彼女の住居に近い、東広島市内の病院の名前などをメモに書いて渡したそうです。「彼女は、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えず、事実を受け止めているように思えた」と印象を語りました。

裁判では、スオンが診察室の中で通信機器を使ってはいけないと思い込んでいたため、受付で利用したアプリを診察室では使うことなく、一人で話を聞いていたことが分かりました。妊娠していることはわかったものの、出産予定日も、詳しい診断内容も理解できていなかったそうです。それでも、別の病院を紹介されたことは理解できていました。

そして、その診察から1、2週間して、彼女は紹介された東広島市内の病院を訪ねた、ということが裁判の中で明らかにされました。1か所目のクリニックでしたのと同じように、保険証を提出し、スマホのアプリと、知人との通話による通訳で、今度は「中絶したい」と希望を伝えたそうです。ところが…。

(弁護人)Q 窓口にいた女性に希望は伝わりましたか?
(被告人)A わかってくれたかどうかはわかりません。
(弁護人)Q 中絶の希望を伝えたら、病院の人はなんと答えたんですか?
(被告人)A 通訳をしてくれる付き添いの人がいないとダメ、と言われた。
(弁護人)Q それであなたはどうしたんですか?
(被告人)A …長い沈黙… ハイと言って…帰りました。
(弁護人)Q 病院に受診を断られた、と理解した?
(被告人)A 相手が断っていたのかどうか、自分が日本語を理解できていないのかという不安もありました。
(弁護人)Q どういう気持ちでしたか?
(被告人)A 悲しかった。

その後スオンは、自分より日本語が達者だったベトナム人の同僚に付き添いを頼みますが、断られてしまいます。そして付き合っていた男性にも…。

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それから半年ほど経った2020年秋。臨月が迫っていたスオンは、再び東広島市内の病院を訪ねたそうです。少し前に動かなくなったお腹の赤ちゃんが、元気かどうかを確かめるためでした。

◆「全てが嫌に」なってしまうまでの道のり

この時点で、彼女はもう中絶できないことをわかっていて、「赤ちゃんが生まれる」ことを覚悟していました。受付では、前回同様保険証を提出し、問診表に名前を記入します。そしてスマホのアプリを使って「赤ちゃんが元気かどうかを診て欲しい」と伝えましたが、再び「一緒に通訳人を連れてこないといけない」と言われたそうです。

(弁護人)Q そう言われてどうしたんですか?
(被告人)A 帰りました。
(弁護人)Q 他の病院に行こうとは思わなかったんですか?
(被告人)A 仮に行ったとしても、私は日本語がわからないからどうせ受診はできないだろうと思いました。
(弁護人)Q もし診てもらえていたら通院していたということですか?
(被告人)A 時々なら行けたと思う。

彼女は、家から病院までのおよそ8kmの道のりを歩きとタクシーで向かっていました。ベトナムでは出産にかかる費用は自己負担らしく、彼女は、日本では母子手帳を受け取れば妊婦健診が無料でできることや、出産後には出産育児一時金がもらえることを知りませんでした。また、収入のほとんどをベトナムの家族に仕送りしているため、毎月の生活費は2万円前後でした。お金が心配だったそうです。

(弁護人)Q 妊娠を理由に病院に行くのは勇気のいること?
(被告人)A ハイ。
(弁護人)Q 2回とも断られてどんな思いになりましたか?
(被告人)A とても悲しかった。そして全てが嫌になってしまいました。

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被告人質問の時でさえ、彼女は「どんな気持ちか?」と尋ねられた時しか自分の気持ちを言いませんでした。それだけに、この時の彼女の証言は強い印象を残しました。

◆避妊はしていた…が

妊娠を確認するまでに、スオンは2人のベトナム人技能実習生の男性と交際していました。どちらが父親か、すぐにはわからなかったと言いますが、最初に付きあっていた男性にも、その後付き合った男性にも妊娠を伝えており、そのどちらにも「中絶」を望まれていました。彼らが病院に付き添うことはなく、彼女からの連絡がつかない状態になりました。そればかりか、彼女が子どもの父だと思っていた方の男性は、妊娠について相談した彼女に、「そのままにしておいて。僕の方でなんとか考えてやる」と言ったまま、結局何もせず、音信不通となったのです。

裁判でスオンは、避妊を望んでいたものの男性がコンドームをつけなかったこと。そのため、ほかの方法で避妊しようとしていたことを語りました。検察は、結局は父親でなかった男性との「避妊に失敗した」様子までを執拗に問いただし、彼女は絞り出すように「答えづらい」と言いました。

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男性たちが証人に呼ばれることはなく、子どもを死なせた女は、男女の間で起きた出来事の全責任を背負わされて、証言台に立っていました。

判決でも、彼女が「母親として保護すべき責任があるにもかかわらず」死亡させた点が罪となるべき事実として認定され、「母親としての自覚が乏しかった」ことが非難されています。

私には、「保護すべき責任がある」のは母親だけだったのか、という強い疑問が残りました。法の下で人は平等に裁かれるはずですが、子どもの父親は法の下からスルリと抜け出て、裁かれることはありませんでした。

ベトナム人技能実習生の実情に詳しい、神戸大学大学院国際協力研究科の斉藤善久准教授は、彼らに対して、より現状に即した性教育が必要だと指摘します。「勉強しに来てるんだから性交渉するな、とか無理ですからね。最初の1ヶ月講習の時に、避妊具や避妊薬が、どういうところで、いくらぐらいで、どんなパッケージで売っています、ということを教えた方がいいかもしれない」

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さらに、決して安易にとるべき選択肢ではないものの、望まない妊娠をした場合には「中絶」という方法があります。日本では経口中絶薬は未承認ですが、ベトナムでは薬局で安価に購入できるそうです。つまりこの情報を知らずにいると、「買える」と思っていたものが必要な場面になって「手に入らない」という事態に陥ります。そのためでしょうか、日本でもSNSを通じて違法な売買が行われているようで、摘発が厳しくなってきた今もなお、「誰か持っていませんか?」「欲しい人はメールで連絡を」など、隠語を使いながらのやりとりが交わされています。

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私は結審した後の面会で、スオンに「中絶薬を探さなかったのか」と問いました。彼女は、「探したけれども見つからなかった」と答えました。

◆つまり…「相談はしていた」

前述したように、スオンは自分の妊娠について、決して「誰にも言わなかった」わけではなく、医療機関とベトナム人の仲間の一部には「相談していた」わけですが、結局、適切な助言やサポートに辿り着くことはできませんでした。

証言からは、彼女が孤立していく様子が伝わってきました。傍聴していた私には、彼女が、日本語が不得意だっただけでなく、パートナーを見る目も友人関係を築く力も弱かったのかも、と思えてなりませんでした。でもそれは「犯罪」ではありません。

一方で彼女自身は、証言台でも、私との面会でも、自分を見捨てた人達のことを、一度も責めませんでした。

その人柄は、彼女が日に日に大きくなるお腹と不安を抱えながらもキビキビ働いていたという健気さや、毎日のようにFacebookでやりとりしていたベトナムの家族にも妊娠について相談しなかったといういじらしさとも重なりました。家族に話さなかった理由は、高血圧の持病のある母親に心配させたくなかったからだそうです。

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そもそも彼女の来日の目的は、娘の養育費と大学進学までの教育費を稼ぐため。「私は進学できなかったから、娘には進学して私みたいな苦労をしてほしくなかった」。こんなことになった今、その言葉は証言台で虚しく響きました。

◆出産の準備はしていなかった

被告人質問からは、スオンが病院を再訪した時には、彼女自身、もう中絶するタイミングにはなく、いつかは生まれることを覚悟していた、という様子が伝わってきました。その一方で「産みたいと思っていたのか?」と聞かれて、彼女は沈黙しました。「育てるつもりがあったのか?」との問いには、長い沈黙の後「答えるのが難しい」と言いました。日本とベトナムのどちらで産むのかも決めておらず、出産の準備もしていませんでした。

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前出の斉藤善久准教授は、数々のベトナム人とやりとりしてきた経験から、この、沈黙や仮定の質問に答えられない心境をこう代弁します。「産みたい、とかじゃない。自分がどういう気持ちであろうと、生まれるってことを受け入れているという心境だったのではないでしょうか?彼らは表面的に謝ったり、過去を振り返ってこうすれば良かった、と軽々しく言わない傾向がある。あの時の自分には、あれしか選択肢がなかった、他にどうすれば良かったんだ、という感覚」

判決では彼女が「周囲に妊娠の事実を隠しており、胎児とこれからどうすればいいのかを決めきれないまま、出産当日に至っている」と、捉えられていました。

◆生まれた子どもの口にテープを張った

私にとって、今回の裁判で一番ショックだったことは、スオンの犯行当日の動きでした。

彼女はたった一人で出産した後、全身の痛みとめまいを感じながら、ゆっくりと移動して自分の身体から流れ出る血を止めようとしたり、洗ったりします。

そして、手足を動かし大きな声で泣きわめく赤ちゃんの口に、長さ14cm幅5cmほどの白と青の粘着テープを張りました。理由は「泣き声が外の人に聞かれるのが怖かったから」。

質疑が進み、女児が羊水や血液で濡れていたり、手足を動かしたりしたために、テープはすぐに剥がれ落ち、その手に張り付いたことがわかりました。私はホッとしましたが、実は彼女は、赤ちゃんの口に再びテープを張ったのです。今度は緑色のものでした。

司法解剖の結果、死因は「窒息、または低体温症」とされています。スオンは「テープは鼻にはかかっていなかった」と言い、赤ちゃんは1~2時間は生きていたとされることからも、このテープが死亡の直接の原因となったかどうかは不明です。

私は、彼女が何をしてしまったのかようやく知ることができた、と思いながら、かすかに描いていた「彼女は悪くないのでは」という望みが打ち砕かれたと思いしりました。

彼女がやったことは、たぶん最悪で、彼女自身がそれを自覚し、反省しているからこそ、事件について話したくなかったし、他の人を責めることもしないのだと強く感じました。

こんな壮絶な瞬間の行為について証言する時でさえ、彼女は言葉少なに問われた事実だけを答えました。その時の気持ちや自分の状態を付け加えることはなく、弁護人に逐一尋ねられてようやく、「血まみれだった」、「立っていられないほどだった」、「全身が痛くてめまいがした」、ということがわかりました。

◆そして抱き上げることはなかった

さらにスオンは、生まれた女児を1度も抱き上げることがなかったそうです。

身体に付着した羊水や血液を拭きとられることもなく、毛布などで包まれることもなく、口に粘着テープを張られて、外気温が12~13℃という11月の昼間に、木製の床の上に放置された女の子は、生まれて1~2時間で動かなくなっていた、とみられます。

濡れた女児の体からは、水分の蒸発と共に、熱が奪われていきました。窒息でなかったとすると、その女の子は体が冷たくなったために亡くなったのです。私はこれにもゾッとしました。

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結審の後、私は拘置所にいるスオンに再び会いに行きました。18回目となる面会は、通訳が不在で、たどたどしいやりとりに終始しましたが、彼女が私に「裁判を見ていてどう思ったか?」と聞いてきたことはわかりました。

「びっくりした」と伝えると、「びっくりしただけか?」と何度か繰り返しました。

私は迷いましたが、正直に「酷いと思った」と伝えました。彼女は悲しそうな顔をして黙りました。

私は続けて、「でも酷いのはあなたのやったことだけではないと思う」と伝えたかったのですが、こんな概念的な言葉は、通訳なしには伝わりませんでした。

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裁判では、男性検事が執拗に、「母国に残した我が子が泣けば抱いてあやすのに、この時生まれた女児が泣けば口に粘着テープを張り、抱くことさえなかったのはなぜか?」、と問い詰めました。「母は子を抱くはずだ」と信じて疑わないかのような彼の態度に、出産直後の母子の様子を見たことがあるのだろうかと疑問に思いました。

私も、スオンが赤ちゃんを抱いてやれたら良かったのに、と思わずにはいられません。抱けば彼女の衣服で水分は吹き取られ、保温され、もしかしたら愛情が芽生えて、死なせずに済んだかもしれません。

しかし、自分がその立場だったら、本当に抱き上げられるだろうかと自問します。産道を通って出てきたばかりの、グニャグニャでベトベトの赤ちゃん。誰にも拭いてもらっていないのなら、その子は血まみれのはずで、あたりは水浸しで、へその緒を切ってもらうことさえなかったのなら、それは両手を広げたくらいの大きさのレバーのような胎盤とつながっているはず…。

「発覚すれば帰国させられる」という焦りの中で、たった一人で全身全霊の力で出産した直後に、合わせて4kg程度になるであろう、その複雑な形の生命体を、誰もが抱き上げられるものでしょうか?

そして裁判では、こんな壮絶な孤立出産の当日にも、命が助かるチャンスがかすかにあったことがわかりました。

◆最後まで助けを呼べなかった

出産直前の朝も、スオンは出勤していました。

裁判で読み上げられた日本人の同僚の供述調書からは、彼女が出勤したものの、トイレの頻度が高く、顔色が悪く、お腹が痛いと言ってしゃがみ込むほどだったことがわかりました。

早退を申し出た彼女に、同僚は「赤ちゃんじゃないよね?」と尋ねますが、彼女は「大丈夫」とだけ答えました。そして彼女は1人で帰宅します。日本語がほとんど話せない彼女の様子を見に来る人は誰もありませんでした。

出産直後の彼女のスマホには、ベトナム人の友人からの連絡も入りますが、彼女はどう応答したか覚えていないと証言しました。

検察は、どうして赤ちゃんが生まれそうになった時、また生まれた直後にさえ、誰にも連絡しなかったのか、と尋ねました。質問の仕方を変えて何度聞かれても、彼女は長い沈黙を繰り返しました。私は、彼女がどうしていいかわからないほどの混乱状態にあったことを想像しました。助けてほしかったんだろうな、と思いました。

裁判官は丁寧な口調で、長い沈黙の理由を尋ねました。彼女は「とても緊張していて頭で何も考えられない」と答えました。当時、という意味なのか、証言台にいる今、という意味なのかはわかりませんでした。ただその後、「赤ちゃんが死んでしまってもいいと考えたのか?」という問いには、「そうは思っていなかった」と否定しました。「それならどうして助けなかったのか」、と繰り返される質問には、動揺していて誰かに連絡を取ることまで考えられなかったこと、自分の身体が疲れ切っていたために赤ちゃんを助けられなかったことをポツポツと語りました。そして、自分勝手だったと何度も詫びました。

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結果、孤立出産の末に生まれた子はやがて動かなくなり、スオンはその子を段ボールに入れて庭に埋めます。ベトナムでは、亡くなった人を土葬する習慣があります。彼女は、鍬で掘った穴に段ボールを入れてからは手で土をかぶせたそうです。

「愛おしい気持ちで、赤ちゃんの身体を傷つけたくなかったから」と言って、証言台の彼女は涙を拭いました。

◆でも名付けていた

結審の日、裁判長に「最後に言っておきたいことがあれば」と促されたスオンは、赤ちゃんを「ニィちゃん」と名付けていた、と明かしました。そして「ニィちゃん、ごめんなさい。お母さんを許して下さい。この1年間あなたのことをずっと考えています。本当にごめんなさい」という言葉で締めくくりました。

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結審後の面会で、私は「ニィちゃん」という名前の意味を尋ねました。その名前には、「かわいい」「優しい」という意味がある、と彼女は言いました。

◆判決では「同情…被告人のみの責任とするのは酷」

今回の判決では、「懲役4年」という求刑に対し、「懲役3年、執行猶予4年」が言い渡されました。量刑理由について、判決文では、「犯行態様は悪質である」としながらも、保護責任者遺棄致死罪については、「社会的に孤立した状態で出産当日を迎えた経緯には、同情することができる。本件犯行を被告人のみの責任だとするのは酷である」と指摘しています。

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傍聴していた私には、「この時に誰かがサポートしていたら」、「この段階で何らかのアドバイスがなされていたら」と、生まれた子が死ななくて済んだと思えるポイントがいくつもあったように思えました。

一番大きな要素としては、スオンが勤め先の会社や技能実習生を保護する立場にある監理団体になぜ相談しなかったのか、という点でした。

この点について裁判では、彼女の口から何度も「妊娠していることがわかると帰国させられるかもしれないと思った」「帰国させられたら借金が返せなくなる」旨が語られました。その結果「話そうと思うこともあったが、最後まで迷っていた」と。

弁護人や検察は、こういった状況を、「被告は『妊娠したら強制帰国させられる』という噂を信じていた」と表現していました。

◆「妊娠したら強制帰国という噂」…という言葉のトリック

私は、この「強制」という言葉と「噂」という言葉が相まって、まるで現在の日本ではそういった実態がないかのように審理が進むことを奇妙に感じながらも、確かにルール上は「強制帰国」させられるはずがないこと、一方で、それでも多くの技能実習生が実習を中断して帰国する事態を強く恐れているということについて、取材して結審の日に放送しました。

(参考 妊娠 なぜ相談できなかった…? 背景に技能実習生 特有の事情

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放送では触れられませんでしたが、自分の身を守ることにもなる日本の数々の法令について、技能実習生は研修で学びます。今回も、監理団体は専門家による講義を実施していました。しかし、その研修では1日で大量の情報を吸収しなければならず、スオンは内容を覚えていませんでした。

また監理団体は、規定通り定期的に面談を行っていたし、相談窓口も用意していたとしていますが、その面談は個別に行われたものではなく、記録は毎回数行でした。

出産の前月には、本人の様子を「元気がない」と認めながら、担当者は最後までお腹が大きくなっていることには気付かなかったと証言しました。私は詳しく話を聞こうと取材を申し込みましたが、「話すことは一切ない」と断られました。

一方、裁判で示された調書によると、彼女が働いていた会社には、お腹の膨らみに気付いていた人はいたものの、社長は「仕事で日本に来ている実習生が妊娠しているとは思いつかなかった」と述べ、「正社員である技能実習生を、妊娠を理由に辞めさせたら大問題であり、解雇はあり得ない」という認識でいたことも明らかになりました。

私は彼と話した際に、彼女がいつもダボッとした服を着ていたこと、まさか妊娠しているとは思えないほどキビキビと働いていたこと、そして日本に来て太ったのかと思ったが、女性にそういった話をしにくかった、ということを聞いていました。

スタッフの中には「相談してくれていたら、帰国しないですむ方法があったかもしれない」とうつむく人もいました。私には、彼らが嘘をついているようには思えませんでした。

しかし、ベトナム人技能実習生の実情に詳しい、神戸大学大学院国際協力研究科の斉藤善久准教授によると、例えホワイトな会社であっても、技能実習生には相談しにくい事情があると言います。

それは、実習生の抱えている莫大な借金です。スオンの場合も事件当時、日本円にして100万円ほどの借金があったとされています。本人のベトナムでの月収は1万5000円程度だったことを考えると、これが途方もない金額であることがわかります。

(斉藤善久准教授)
「日本に来る際の手数料等が高いからですよね。その借金を返すために少しでも稼ぎたい。まして借金を抱えて利息を毎月払わないと、家・土地がなくなるような立場だから休んでいられないんです。いい職場だったら、たぶん体調を心配して、休ませるとか、残業させないとかしますよね。それは困るんです」

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斉藤准教授によると、結局、「妊娠したら帰国」というのは「根も葉もない噂」ではなく「根拠のある噂」で、多くの実習生が「妊娠したら仕事を辞めさせられてしまう」という認識のために中絶するし、中絶しない場合には「自己都合退職」という形で帰国しているそうです。

この現状について放送した翌日です。

放送を見たという、近畿地方の元・技能実習生から、支援者に連絡が入りました。それは「うちの会社、妊娠で3人解雇されたよー、寮からたたき出されて監理団体の宿舎に戻ったよー」というものでした。その会社と技能実習生の間で交わされるLINE上のやりとりを見て、私は、この会社が法的には言い逃れができたとしても、日本語のつたないベトナムの女性たちが、これを「強制帰国させられる」と捉えても無理からぬことだと感じました。

RCC

「噂」は、見方によっては「噂」には留まらない力を持つし、それを感じているのは今回の事件を起こしたスオンだけではありません。このままでは、遠くない将来に次のニィちゃんが現れてしまうと思えてなりません。新しく生まれる命を死なせないために、私たちにはこれから何ができるでしょうか?

◆誰に何ができるのか?

判決では、特に監理団体において、保護主体としての役割を実質的に果たすことが求められていたのに、彼女の腹部の変化も把握できておらず、面談は形式なものとなってしまっており、気軽に相談できる環境が整っていたとは言えず、彼女が働いていた会社との連携も十分でなかったことが指摘されました。

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また、「監理団体や実習実施企業が被告人に対してもっと関心を寄せ、コミュニケーションをとることができていたならば被告人が孤立した出産を迎えることは防げたと考えられる。被告人自ら助けを求めた胎児の父親及び医療機関から助力をえられなかったのことの影響も大きい」としています。

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私は、1年半に渡って合わせて20回スオンと面会しましたが、事件について聞けたことはほとんどありませんでした。関係先から話を聞くことも難しく、自分の無力さと閉塞感を味わい続けました。

しかし、取材を進めて行く中で、ベトナム人技能実習生の支援について真剣に取り組んでいる人たちと出会うことができました。全国に点在する彼らの取り組みには、光を感じました。そして彼らの中には拘置所でスオンと面会を重ねている人もいました。

執行猶予のついた判決が下り、拘置所を出た彼女に対して、私は、監理団体を通じてインタビューを申し込みました。自由の身になった彼女には、もう少し話せることが増えるのではないか、私たちがどうすれば良かったのかを、より深く、具体的に考えられるのではないかと思ったからです。

しかし、「本人が特定の支援者の方以外とは会いたくないと言っている」とのことで、依頼は断わられました。私はまたしても虚しい気持ちになりましたが、スオンにとって会いたい支援者がいる、ということには安心もしました。支援者が楽しみにしていることも聞いていました。

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ところが、監理団体はすでにチケットを手配していたようで、判決の2日後には彼女はもうベトナムにいました。

本人が会いたいと言っていたはずの「特定の支援者」との夕食会が予定されていたのは、その日の夜のことでした。その人たちと会わずに帰国したことは、本人が決めたのか、それとも監理団体がそうしたのか、それは今となっては分かりません。

生まれたばかりの命が失われた今回の事件…。

彼女は、もうそっとしておいてほしいと願っているはずで、詳細が明らかになることを決して喜ばないでしょう。

それでも私は、関係者への取材や裁判を傍聴してわかったことと、そこから浮かぶ課題を、より多くの人たちと共有したいと思っています。彼女が残した言葉の意味をしっかりと受け止めるために。そして、次に生まれる子どもたちを死なせないために。

RCC中国放送/岡本幸

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