パブリック・エネミーのチャックDが自身の名盤を語る

Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

1987年の夏のこと。パブリック・エネミー(Public Enemy)はLL・クール・J、ダグ・E・フレッシュ、エリックB &ラキム、ステッツァソニック、フーディーニとともにデフ・ジャム・ツアーを回っていた。長期間に亘りツアー・バスでの移動が続く中で、3枚の名作アルバムの青写真が描かれた。

それがデ・ラ・ソウルの『3 Feet High And Rising』、ステッツァソニックの『In Full Gear』、そしてパブリック・エネミーの『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』である。

パブリック・エネミーのサウンドを司るボム・スクワッドのハンク・ショックリーは、シングル「Bring The Noise」のトラックに激しいドラムと抽象的なノイズを盛り込んだ。伝説的なヒップホップ・グループの頭脳であるチャックDは、これにどのようなラップを乗せるか試行錯誤したというが、それが形になったとき、すべてが始まったのだ。

1987年のデビュー作『Yo! Bum Rush The Show』に続くパブリック・エネミーの2作目となった『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』は、1988年に発表されるやいなやヒップホップ・シーンを一変させた。あまりに率直で政治色の濃いチャックのリリックや、その中に差し挟まるフレイヴァー・フレイヴのユーモア、そしてボム・スクワッドが作り出すアヴァンギャルドなサウンドが組み合わさって、同作はパブリック・エネミーにとって最も影響力の強いアルバムになった。

2018年に行われたこのインタビューの中で、チャックDはアルバムの知られざる立役者や、マーヴィン・ゲイやアース・ウィンド&ファイアーからの影響、そして収録楽曲「Black Steel In The Hour Of Chaos」に隠された秘話を明かしている。

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1988年という時代

――あなたは『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』をパブリック・エネミーの最高傑作と考えていますか?

ラップ・アルバムが、本来あるべき形でメインストリームに認められたのは1986年のことだった。それ以前のアルバムは、コンピレーションに近かった。グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴやRUN DMCのファースト・アルバムは、シングルの寄せ集めのような感じだったんだ。そんな中、フーディーニがヒップホップ界で初めて、ひとつの壮大な作品になっている重要なアルバムを作った。そして、従来の型を完全に打破したのがRUN DMCの『Raising Hell』で、これは年代に関係なく俺の一番好きなアルバムでもある。そのあと、ビースティー・ボーイズの『Licensed To Ill』が登場したんだ。

1987年か88年頃になると、メジャーのレコード会社にとってもヒップホップやラップへ投資するメリットが出てきたんだ。シングル中心のマーケットには興味を示さなかったからね。彼らにとってはシングルだけでは不十分だった。そして、俺たちは先陣を切って、ヒップホップがアルバム重視の音楽であることを証明しようとしていた。ファースト・アルバムをリリースしたときから、セカンド・アルバムでは何をやるべきかわかっていたんだ。全国、また全世界を回る中で、アルバムの”あるべき姿”が見えてきた。当時のインタビューで俺は、俺たちなりのマーヴィン・ゲイの『What’s Going On』を作るつもりだと話していたよ。

アルバムにライヴの音源が使用されている意味

――当時から、このアルバムが特に重要になると確信していたのはどうしてですか?

俺たちは、色んな感情が入り混じった体験ができる作品を作りたかった。ひとつには、RUN DMCの『Raising Hell』のようなアルバムにしたかったんだ。それに加えて、俺たちはステージでパフォーマンスしやすいアルバムにもしたかった。

『Yo! Bum Rush The Show』をリリースしてライヴをやっていると、観客の熱量に合わせてターンテーブルから流すトラックのテンポを速めたいと思うことがあった。音源を流すという意味ではテンポは一定だから、BPMを全体に速くしたんだ。

それに、俺たちはアルバムにライヴ的な要素も加えたかった。その点では、アース・ウィンド&ファイアーの『Gratitude (灼熱の狂宴) 』というライヴ・アルバムにすごく影響を受けたんだ。そこからヒントを得たのは、『It Takes A Nation〜』の全曲が出来上がった後だった。俺はロンドンでのライヴのテープを持っていて、それをアルバムに散りばめることにしたんだ。そんな風に音源を差し挟んだのはあのアルバムが初めてだった。それ以降、ライヴの音源を使うようになったんだ。デ・ラ・ソウルは同じことをスキットでやっていたけど、俺たちはひとつの体験になるようなアルバムを作りたかったから、そういう要素を全部詰め込んだんだ。

――冒頭の「Countdown To Armageddon」から、ロンドンでのライヴ音源から幕を開けるんですね。

デフ・ジャム・ツアーであの場所に乗り込んだとき、俺たちはそれを”ロンドン・インヴェイジョン (ロンドンへの侵略) “と呼んでいた。俺たちは「なあ、お前らはまだ俺たちにハマってないみたいだけど、世界中みんな俺たちにハマっているぜ」と知らしめるために、その音源を入れたんだ。実際に、”国が動かないと俺たちを止められない (It takes a nation to hold us back) “状態だったのさ。

アルバムタイトルの意味とマーケティング

――そう聞くと、アルバムタイトルの意味に納得がいきます。

実はこのアルバム・タイトルは、トロントのナウ・マガジンのインタビューから取ったものなんだ。記事の見出しに使われていたフレーズなんだよ。もともとは『Yo! Bum Rush The Show』に入っている「Raise The Roof」という曲の一節から来ている。

当初、このアルバムは『Countdown To Armageddon』という名前になる予定だった。だけどあるとき俺と、同じくらい“うるさ型”のハンク・ショックリー(ボム・スクワッド)がそのインタビューを見つけたんだけど、その長さに驚いたよ。あまりに長くて目立っていたから、イカしてると思ったのさ。

――アルバムの宣伝はどのように進めたのですか?

実は、ハンクはレコード店で働いていた。クイーンズのサム・グッディで店長をやっていたんだ。あるとき、彼が俺に「なあ、こいつらイカしてるぜ」と言って、アイアン・メイデンのアルバムを渡してきた。そのことが印象に残っていて、パブリック・エネミーのマーケティングに関しては、タイトルやテーマを考えるときも、それを意識するようにしていたんだ。

――アルバムではアンスラックスとコラボした「Bring The Noise」のリミックスが個人的に大好きです。『It Takes A Nation〜』ではメタルのレコードを多くサンプリングしていますよね。リック・ルービンはビースティー・ボーイズと、RUN DMCはエアロスミスとコラボしていますが、ハードコア / メタルを取り入れることはリスクだと感じませんでしたか?

いや。俺たちはロングアイランド出身だからね。そういう音楽をよく知っていたし、うまくいくこともわかっていた。1986年頃の俺たちは、レコードを知り尽くしていた。レコード用の部屋がいくつもあったんだ。色んなグループやレコード、サウンドを熟知していた。ターンテーブルを使ってそういう音楽に脚光を当てられると確信していたよ。

――声のサンプル音源の多くをあなたが自ら探してきたというのは本当ですか?

そう、それは俺の仕事だったね。スクラッチに関していえば、このアルバムではターミネーターXとジョニー・ジュース・ロサドという、ふたりのDJが担当している。彼らは、『Yo! Bum Rush The Show』と『It Takes A Nation〜』の両方でターンテーブルを担っている影のヒーローだ。ターミネーターXのスクラッチはファンク寄りのリズムで、ジョニー・ジュースは抜け目ない仕事人タイプなんだ。しっくりこないスクラッチがあるときは、ジュースに任せればしっかりキメてくれる。

――ふたりでやっていたとは知りませんでした。

ジュースも自分の功績が知られていないことに、納得いっていないみたいだよ。

アルバムの制作について

――アルバムを完成させるまでのどこかのタイミングで、エンジニアが交代していますね。何が起こったのですか?

初めの頃、ハンクは俺たちのやっていることが一部のスタジオに理解されていないと感じていた。エンジニアの中にも理解していない奴がいたんだよ。俺たちは常識外れなことを色々やっていたからね。そこで、ハンクがリック・ルービンのコネを活用して、俺たちはスティーヴ・エットと仕事をするようになった。彼もまた、影の立役者のひとりさ。2インチのテープをカットして、部屋中に巻きつけながら「Public Enemy No.1」を形にしてくれたのも彼なんだ。彼は何年も前に亡くなってしまったけど、そういうサウンドの細かい調整を多く手がけてくれた影の立役者さ。

俺たちはそうして (マンハッタンの) チャンキン・スタジオで作業していたけど、そのあとでハンクが、またロッド・ヒュイをエンジニアに起用しようと言い始めた。その頃、ちょうどRUN DMCがグリーン・ストリート・スタジオとロッド・ヒュイのもとを離れたところだったんだ。彼も影のヒーローのひとりだね (笑) 。

――ハンクはアルバム制作においてどのような役割を担っていたんですか?

ハンクには見る目があった。自分の手で音楽を作ることはしなくても、音楽を形にする名人だったんだ。あれだけのノイズを入れてサウンドを成立させているのを聴けば、彼の能力は明らかだ。ノイズを上手くまとめなきゃいけないときは、ハンクがそれをやってくれた。彼からロッド・ヒュイにノイズの使い方を教えていたくらいだよ。

――ハンクはあるとき、パワフルなあなたの声に合うようなサウンドを作る必要があった、と話していました。彼はあなたの強さやエネルギーに負けないように『It Takes A Nation〜』のトラックを作ろうと考えていたようです。

俺があのスピードに付いていけるとわかっているからこそ成り立つ協力関係だね。1987年夏のデフ・ジャム・ツアーの間、俺はかなりの時間をかけて「Bring The Noise」をレコーディングできるまでに仕上げた。LL・クール・Jやステッツァソニックとバスが一緒だったんだ。そのバスの車中で、『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』も出来たし、ステッツァソニックの『In Full Gear』と、同じくプリンス・ポールが関わっていた『3 Feet High And Rising』の原型も出来上がった。バスで回った1987年の長いツアーの中で、3枚の名作アルバムが生まれたんだ。

――プリンス・ポールからそんな話を聞いたことはなかったです。

彼はデ・ラ・ソウルをどう軌道に乗せるかで頭を悩ませていたから、『In Full Gear』はダディOが中心になって作っていた。『It Takes A Nation〜』と並ぶ名作だね。

俺たちは8時間かけて「Bring The Noise」をどうラップするか考えた。あの曲は映画『レス・ザン・ゼロ』に使われることになっていたんだ。もともと俺たちはその映画向けに「Don’t Believe The Hype」を提供したんだけど、テンポが遅すぎると却下された。だから1987年の9月から10月にかけて「Bring The Noise」をレコーディングしたんだ。

そうして「Rebel Without A Pause」と「Bring The Noise」を完成させたところで、リックと意見が食い違った。彼はその2曲を『It Takes A Nation〜』から外したがったんだ。俺たちは猛烈に反対して、結局我が道を行くことにした。A面とB面———俺たちの呼び方ではシルバー・サイドとブラック・サイド———に入れるのに最高の2曲だと思ったのさ。トリビアをもうひとつ話すと、『It Takes A Nation〜』はもともとB面がA面で、A面がB 面だった。それをハンクが入れ替えたんだ。

「Black Steel In The Hour Of Chaos」の歌詞の意味

――「この間、政府から手紙が届いた / 開けて読んでみると / 奴らは間抜けだと書いてあった (I got a letter from the government the other day / I opened and read it / It said they were suckers.) 」という一節は「Black Steel In The Hour Of Chaos」の中でも屈指のリリックですね。この一節は、現代社会においても意味を持つと思いますか?

そうだね。あの曲は架空の話じゃないから、全然突飛な内容ではない。あれは1967年のことだった。俺が祖母の家にいたとき、高校を出たばかりの叔父がベトナムで戦うために海兵隊に徴兵されたんだ。彼のところには一枚の手紙が届いていた。俺はまだ子どもだったけど、読んだ手紙を思わず手から落とした彼の顔を覚えているよ。そのあと、軍人が家までやってきた。

彼は高校を出たばかりで、18歳の少年らしく羽を伸ばしていたところだったのに、手紙を落としたまま去っていった。それは、叔父がベトナムに徴兵されるという内容の手紙だったんだ。幸せそうに過ごしていた彼にとっては「何てこった」っていう感じだっただろう。

なんとか逃れようとする人も多かったけど、そうはいかなかった。そう軽い話じゃないからね。実際、彼は負傷して、パープル・ハート勲章(名誉負傷章)をもらった。俺たちはそれをG.I.ジョー人形につけたけどね (笑) 。彼にとってはメダルなんてそんなものだったのさ。俺たちが「ワオ、メダルもらったんだね」と言っても彼は「ああ、これで遊べよ。どっかへやってくれ」って感じだった。それが印象に残っていて「政府から手紙が届いた」 という一節が出来た。まさに叔父の実話なのさ。

――あなたは政府を”間抜け (suckas) “と表現していますね。

ほとんどが我慢ならない政府ばかりさ。俺はアーティストだから、世界はみんなでシェアするものだと思っている。俺はヒッピーみたいなものさ。本当にヒッピーみたいな考え方なんだ。俺が1960年代生まれなのもあるだろう。だけど『It Takes A Nation〜』の根幹にある考えは、俺たちみんなにとっての音楽の原点は1960年代や70年代にあるってことなんだ。

その考え方から、1988年に『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』が生まれた。振り返ってみれば、俺は1978年に高校を卒業して、ハンクは1976年に卒業した。つまりその頃すでに、ヒップホップに取り入れられる多くの要素が揃っていたのに、誰もそのことに気づいていなかったんだ。

Written By Kyle Eustice

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**パブリック・エネミー『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』
**1988年6月28日発売

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