「かど番はもはや恒例行事」大関3人で19勝26敗、嘆く親方衆 大関は単なる“ナンバー2”ではない。不可欠な地位である歴史的な理由

若隆景(左)が寄り切りで大関御嶽海を破る=5月18日、両国国技館

 5月の大相撲夏場所では、大関陣がとにかくよく負けた。御嶽海と正代が9敗と10敗を喫して負け越し、貴景勝は千秋楽にやっと勝ち越した。3人合計19勝26敗の惨状で、直接対決を除く12日間で3大関安泰はわずか2度しかなかった。猛暑が予想される名古屋場所(7月10日初日・ドルフィンズアリーナ)。3大関は周囲の冷たい視線を浴び、特にかど番の2人は背水の土俵に立つ。横綱の次に位置する大関はその昔、番付の最高位にいた。単なる“ナンバー2”ではないからこそ、一層の強さが求められる。(共同通信=田井弘幸)

 ▽大関に勝っても「もう呼ばなくていい」

 関脇以下の力士が横綱や大関を破ると、テレビ中継するNHKのインタビュールームに呼ばれる。ただ大関陣が弱かった夏場所では「もう呼ばなくていいでしょう」と苦笑いする親方が複数いたほどで、もはや番付社会の威厳が損なわれかねない事態に陥っている。
 江戸時代から続く大相撲において、大関という地位は欠くことのできないものだ。第16代横綱の初代西ノ海が1890年(明治23年)に初めて「横綱」として番付に載るまで、番付上の最高位は「大関」。それまでの横綱とは、最強力士に与えられる称号だった。

北勝富士(右)に押し出しで敗れた大関貴景勝=5月17日

 だから大関の空位はあってはならず、東西に最低でも一人ずつ並ぶものとされる。東に貴景勝しかいなかった2020年春場所では、西大関の不在を補うために西横綱の鶴竜が「横綱大関」として番付に記された。歴史的な観点からしても、それだけ不可欠な地位といえる。
 「大関」の語源は関取の最上位に当たる「大関取」との説がある。白鵬や大鵬など、優勝20回以上が目安とされる「大横綱」はもちろん、プロ野球の「大投手」や芸能界の「大女優」など傑出した存在に与えられる呼び方のはしりに思える。
 そんな看板の地位が大きく揺らいでいる。最近5年間で陥落は7例(栃ノ心が2度。陥落と同時に引退の豪栄道を除く)もあり、かど番は恒例行事になった。
 

大関正代が寄り切りで遠藤に敗れる=5月12日

 ハワイ出身の武蔵川親方(元横綱武蔵丸)は大関在位32場所で2桁勝利25場所をマークし、負け越しも休場もゼロだった。貴乃花と曙の両横綱が君臨し、史上屈指のハイレベルを誇った1990年代前半以降だけに価値がある。そんな武蔵川親方は「かど番なんて言葉、最近覚えたよ。今は上がったり、下がったりのエスカレーター大関だな。見ていると首が疲れるよ」とユーモアを交えつつ、痛烈に批判した。

 ▽「よし、俺も!」結びの一番に武者震い

 私の記憶の中で、大関陣が最高級の輝きを放った場所がある。39年前の83年夏場所だ。
 この場所は非常事態だった。千代の富士と北の湖の両横綱が全休。2人以上の横綱がそろって初日から不在なのは、1場所15日制が定着した49年夏場所以降、初めてだった。そんな波乱含みの土俵で隆の里、琴風、朝潮、若島津(後の若嶋津)の4大関は見事に奮い立った。
 隆の里と若島津は初日から9連勝。前半戦を琴風は1敗、新大関の朝潮は2敗で折り返す。初日から12連勝と快進撃の関脇北天佑を4人で追走し、13日目終了時点では1敗の北天佑を隆の里、琴風、若島津が1差につけるという白熱の展開を繰り広げた。千秋楽に北天佑が取り直しの熱戦で関脇出羽の花を下して初優勝したが、もし敗れていれば隆の里と若島津との三つどもえによる優勝決定戦になるところだった。
 

琴風が寄り倒しで若嶋津を破る=1984年1月17日、蔵前国技館

 関脇に賜杯を許したとはいえ、4大関は横綱の穴を埋めるどころか、最高位不在を忘れさせるほどの意地を示した。北天佑は場所後の大関昇進を決め、この場所自体も相当に盛り上がった。
 今年4月に65歳の日本相撲協会定年を迎えた尾車親方(元大関琴風)は当時の星取表などで思い出をたどり、こう述懐した。「あの場所はただ必死だった。自分が結びの一番を締める日の割(取組表)を見た時は武者震いがした。他の大関たちと『大変だなあ』と言い合うことはなかったが、目の前で勝たれると『よし、俺も!』と思ったものだよ」

 ▽中洲の夜、年に1度の「大関会」

 尾車親方が看板力士である大関の座をつかんだのは、この夏場所の約1年半前、81年秋場所後のことだった。度重なる膝の大けがを克服。昭和以降で初の大関空位を解消させると同時に、一人大関の重圧がのしかかった。千秋楽から3日後の昇進伝達式で口上を述べると、祝福ムードに沸く周囲をよそに昼から寝込んでしまったという。
 「ものすごく責任を感じた。駄目なら落としてくれとも思った。悩んだが、とどのつまりは努力するしかないということ」と当時を振り返る。古傷の膝にたまった水を注射器で毎日抜きながら、稽古場で横綱千代の富士にぶつかった。「大関なのに新弟子のようだった。転がって頭はぐしゃぐしゃ、体は泥だらけ。でも稽古場で泥にまみれた体は本場所で光るんだから」と力説した。
 大関になった力士たち自身が特別な地位であることを悟り、周囲も実感する特別な夜がある。新型コロナウイルス禍などで最近は中断しているが、「大関会」という会合が毎年11月の九州場所期間中に開かれていた。開催は繁華街の福岡・中洲にあるふぐ料理店で、主に3日目の夜だった。ここに歴代大関が集い、現役大関も取組後に参加。先輩からかつての苦労話を聞き、叱咤激励も受ける。
 だが今の貴景勝、御嶽海、正代には「大関会」の経験がない。先述した尾車親方の回想などを直接聞けば参考になり、何よりも貴重な会合に同席することで地位の重みを再確認できるだけに惜しまれる。

大関昇進の伝達を受け口上を述べる現役時代の魁皇(中央)=2000年7月、名古屋市

 現役時代から出席した浅香山親方(元大関魁皇)は「あの場でしか一緒に食事ができない先輩方の話をうかがい、ためになることもあった。大関の自覚が出てくるし、気持ちが引き締まった」と話す。会合を終え、店から出てくる出席者の顔が一様に紅潮していたのは、酒のせいだけではないと感じた。

 ▽「名大関」はいる、いない?

 元横綱千代の富士の先代九重親方は生前、「名大関という言葉はないんだよ」と何度も言った。大関の上にはまだ横綱があるのだから、上がれなかった力士を「名大関」とたたえるのはどうかという趣旨だ。
 昇進からわずか3場所で最高位に駆け上がり、小さな体で史上3位の優勝31度を記録した「ウルフ」ならではの強気な視点だ。素質に恵まれながら綱とりを果たせなかった弟子の千代大海(元大関、現九重親方)に対するもどかしさもうかがえた。

横綱千代の富士の現役時代。土俵入りを披露=1985年1月、両国国技館

 だが本当にそうだろうか。けがや時の運など、ほんの少しのタイミングのずれで頂点を逃した大関は少なくない。横綱に匹敵する実力、それ以上の人気や存在感を誇示した大関もいた。「名大関」という言葉は、いい響きだと思う。
 現役の3大関は昇進から日が浅い。貴景勝の3年が最長で正代は1年半、御嶽海はまだ半年足らず。昇進直後はそろって綱とりへの意欲を示していたものの、今では地位を守るのに精いっぱいの状態に陥ってしまっている。残念ながら胸を張って「大関会」に出席できるレベルではない。
 間もなく始まる名古屋場所。尾車親方は「やけ酒を飲むか、若い衆より早く起きて稽古場に下りるのか。自分がどうやって大関になれたかを考え直してほしい」と後進の奮起を待ち望む。不振続きの3人にいきなり綱とりの期待は酷ではある。ならば、「名大関」の領域に入る成績をまずは残してほしいものだ。真夏の名古屋が再出発の一歩となる。

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