オフコースの日本武道館10日間公演、日本ライブ史上に残るイベントの背景  40年の時を経てCD化された伝説のコンサート。最新のクオリティで興奮と感動が蘇える!

日本最高のライブ会場“日本武道館”

今では「武道館ライブ」は、ジャンルを問わず新人アーティストの “最初の目標”… いわば通過点になっているというイメージがある。確かに、スタジアム、アリーナなど、武道館以上の収容キャパシティをもつ会場が全国に点在している状況を考えれば、武道館を特別視することに違和感を覚える人もいるのではないかと思う。

確かに日本武道館を “聖地” として必要以上に持ち上げる必要はないけれど、日本のポップミュージックヒストリーにおいて武道館が重要な役割を果たしてきた場所だということも間違いないと思うのだ。

もともと日本武道館は、1964年の東京オリンピック柔道会場として建設された武道を中心とするスポーツ施設だ。 しかし、当時としては日本最大級である1万人が収容できる屋内会場としてスポーツ以外の大型イベントにも使われるようになる。そして1966年6月のザ・ビートルズ公演をきっかけに音楽ライブの会場としても使用されるようになり、1970年代には、シカゴ、レッド・ツェッペリン、カーペンターズ、エリック・クラプトンなどの大物来日アーティストのライブが開催され、ディープ・パープルの『ライブ・イン・ジャパン』(1975年)やボブ・ディランの『武道館』(1978年)など武道館で収録された優れたライブアルバムも発表された。

こうして日本武道館は、世界のトップアーティストにとっての日本最高のライブ会場として、国内外の音楽ファンに認知されていった。

“世界のトップアーティストにふさわしいライブ会場” という武道館のイメージは、日本人アーティストにとっても大きなメリットを感じさせるもので、1970年代に入ると、西城秀樹(1975年)、南こうせつ(1976年)、矢沢永吉(1977年)、原田真二(1978年)などがコンサートをおこなった。しかし、日本人アーティストにとっては、1970年代の武道館は、まだまだ “特別な場所” というイメージが強かった。

しかし、1980年代に入ると、山口百恵(引退公演)、イルカ、サザンオールスターズ、浜田省吾などが武道館コンサートをおこなったり、何組かのアーティストが対バン形式による武道館ライブをおこなうケースも生まれていった。

しかし単独で武道館を満員にできるアーティストはきわめて少なかった。それは、当時のアーティストパワーが今よりも劣っていたということではなく、ライブが日常的な楽しみとしてまだまだ定着していなかったという時代背景があった。

武道館神話、誕生。オフコースが与えた影響

武道館に立つことがトップアーティストのステイタスになるという暗黙の了解も生れ、日本のアーティストにとって武道館ライブは成功の証”という新たな“ブランドイメージ”が創られていった。そうした“武道館神話”の誕生にきわめて大きな影響を与えたのがオフコースだった。なかでも衝撃的だったのが、1982年6月15日から30日にかけて行われた武道館10連続公演だ。

1970年代終わりから1980年代にかけて、ようやくコンサートツアーというスタイルが定着していく。それにともなって、マスメディアにはそれほど注目されていなくとも、ライブで大きな動員力をもつアーティストが生まれていった。そして、そうしたアーティストのなかには全国ツアーで最大の動員が期待できる東京公演の会場を武道館にするというケースがちらほら見られるようになっていく。 オフコースもそうしたライブに強いバンドのひとつだった。

1979年12月に「さよなら」でブレイクする以前から、オフコースはライブバンドとして人気が高く、1979年10月からスタートしたコンサートツアー“THREE AND TWO”の締めくくりとして1980年2月に新宿厚生年金ホール(2,000人収容)で6日間コンサートをおこなうなど、武道館でも満員にできる動員力をもっていた。

しかし、武道館は収容人数こそ大きかったものの、もともとコンサート用につくられていないため、音響的に劣悪だという声も多く、使用を躊躇するアーティストも居た。音楽性を重視するオフコースも武道館コンサートに対しては慎重だった。

常識を覆す素晴らしい音響を武道館で実現

オフコースの初めての武道館ライブは、1980年5月にスタートした『春のコンサートツアー』の一環として、6月27、28日の二日間おこなわれた。この時、彼らはこれまで武道館での通常のコンサートの約5倍のスピーカーを持ち込み音の死角を無くすなど、それまでの常識を覆す素晴らしい音響を実現してみせた。

さらに、1980年11月からスタートしたコンサートツアー『We are』の一環として、81年2月には4日間に渡る武道館コンサートをおこなったが、このコンサートの様子の一部は、当時のテレビドキュメント番組をパッケージ化した『Off Course 1981.Aug.16~Oct.30 若い広場 オフコースの世界』で見ることができる。

オフコースにとって武道館コンサートは、小田和正と鈴木康博のデュオ・グループだった彼らが、1979年にバックメンバーの松尾一彦(G)、大間ジロー(D)、清水仁(B)を正式メンバーとして迎え、バンドとしてのサウンドを構築していく課程を多くのリスナーに披露する場でもあった。そして、オフコースは、演奏、音響だけでなく、ステージセット、効果も含め、隅々にまでこだわりとアイデアが巡らされたハイクオリティなライブショーが武道館でできることを証明してみせた。

オフコースとしての3度目の武道館コンサートとなったのが、1982年6月15日から6月30日にかけて行われた10日間コンサートだった。これは1982年1月22日からスタートした全69公演のツアー『over』のフィナーレとして設定されたもので、トータルで10万人という武道館のキャパシティに対して50万以上の応募が寄せられ、チケットはプラチナカードとなった。

当時としてはまさに前代未聞のスケールだった武道館10日間コンサートは、オフコースファンに止まらず、社会現象として大きな話題となった。

しかし、その背景でもうひとつのストーリーが進んでいた。

日本武道館10日間コンサート開催、そして鈴木康博オフコース脱退

1981年のコンサートツアー『we are』の最中に、オリジナルメンバーの鈴木康博がグループ脱退の意思を表明した。メンバーが5人となり、オフコースの音楽的バランスも変化していくなか、グループとしての活動を続けていくことに疑問をもったのだろう。話し合いの結果、彼らはオフコースの解散を決意する。しかし、まさに彼らはブレイクの最中というタイミングで、解散発表による大きな混乱を避けるため、計画は秘密裏に進められた。そのため、インタビューでも彼らは解散に関する話題は一切口にしなかった。しかし、伏線は慎重に張られていった。

例えば、彼らはアルバムタイトルを使ってファンにメッセージを送っていた。1979年の『THREE AND TWO』、1980年の『we are』というアルバムタイトルをつなぐと“3人と2人で僕たち”、つまりオフコースが5人のバンドとなった宣言として読み取れるように仕掛けられていた。

しかし、1981年のアルバムタイトル『over』では、そのニュアンスが大きく違っていた。前作のタイトルと繋げると “We are over=僕たちは終わり” となる。それは、オフコースからの別れのメッセージとも解釈できるものだった。

武道館10日間コンサートが終わった翌日の7月1日、彼らは解散を発表すると同時に最後のオリジナルアルバム『I LOVE YOU』を発表すると決めていた。このアルバムによってアルバムタイトルに潜ませたラストメッセージ “We are over, I LOVE YOU” も完結するハズだった。

しかし、ツアーの途中、スポーツ新聞に “オフコース解散” の記事が出され、その計画は頓挫することになった。メディアの執拗な追求に対して、彼らは口を開くことなく、ツアーは淡々と進んでいったが、彼らが沈黙を守ることよってさまざまな憶測が飛び交い、ツアーのハイライトとなる武道館10日間コンサートは異様な緊張感と盛り上がりを見せていくことになる。

僕自身、この時の武道館コンサートの印象はいまだに強烈に残っている。

真っ白なステージ、6面の巨大スクリーンいっぱいに映し出される “ひまわり” の映像、声を絞り出すように歌う小田和正、観客を引き込んでいく5人のダイナミックな演奏……。そして会場全体に漂っていたピンと張りつめた緊張感。あの時のいろいろなシーンは、コンサートの現場にいた人には、きっと忘れられないものだったはずだ。

当時はまだ、ロックといえば粗削りなライブというイメージが強かったが、オフコースのステージにはストイックなまでの美意識があった。ステージセットがモノトーンに統一されていたことで、彼らの音楽にある豊かな色彩感が鮮やかに浮き上がってくる。そこには、まさに5人が突き詰めてきたオフコースサウンドの完成形があった。

さすがにあの張りつめた空気感までは追体験できないかもしれないけれど、この時のライブは映像作品『Off Course 1982・6・30 武道館コンサート』として発表されている。さらに、2022年6月29日に、武道館コンサート40周年記念として、最新リマスタリングによるSHM-CD2枚組の『Off Course 1982・6・30 武道館コンサート』がリリースされたばかり。興味のある方はご覧いただければありがたい。

国内外のアーティストたちが心血を注いで展開したライブの歴史

武道館10日間コンサートが終わった翌日の7月1日、アルバム『I LOVE YOU』が発表された。しかし、鈴木康博がグループを離れることは発表されたが、解散については一切触れられなかった。そのまま彼らは2年間の沈黙を守る。そして1984年、オフコースは残されたメンバー4人での活動を再開、1989年まで活動を続けていった。

オフコースの武道館連続10日間コンサートという記録は、1989年のハウンドドッグ15日間コンサートによって塗り替えられた。しかし、武道館において、音響的にも視覚的にもハイクオリティなライブができることを証明したオフコースの功績は、今も色褪せていないと思う。

東京ドームが誕生する1988年まで、日本武道館は首都圏最大級の屋内型ライブ会場となっていたが、1989年に横浜アリーナ、2000年にさいたまスーパーアリーナがオープンするなど、武道館より大規模の首都圏の屋内施設が増えていくことで、大型ライブ会場としての武道館のステイタスは相対的に低下していった。

しかし、今でも「武道館ライブ」が新しいアーティストにとっての“最初の目標”とされる背景には、ザ・ビートルズ以降の、海外、そして国内のトップアーティストたちが、ここで心血を注いで素晴らしいライブを展開してきたという60年近い伝統があるからだ。

もし武道館に行く機会があれば、そんな歴史の匂いも探してみていただければと思う。

2019年6月30日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 前田祥丈

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