【特別寄稿】パチンコ産業の歴史④「回胴式遊技機~パチスロ誕生までの苦悩~」(WEB版)/鈴木政博

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味において「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。
※この原稿は2010年7月号に掲載していた「パチンコ産業の歴史④」を一部加筆・修正したものです。

1. パチスロ誕生前夜
前号で、パチンコの歴史として新たに「じゃん球」「アレンジボール」 といった遊技機が登場し、さらに欧米のスロットマシンを原型に改良を加えたオリンピアマシンが登場したことは述べた。この「回胴式遊技機」いわゆるスロットマシンにおいて、公安委員会が正式に認定した初の認可機となるセガ社製「オリンピアスター」が登場したのが1964年。ただし、この認可機の登場までにはさまざまな苦悩があった。そもそも日本にスロットマシンが入り始めたのは、終戦直後の1940年後半といわれている。最初に入ってきたのは当時、米軍の支配下にあった沖縄で、アメリカ製のスロットマシンが運ばれ設置されていた。もちろん、1ドル硬貨をそのまま投入するアメリカ本土の賭博機で、現在もカジノなどで馴染み深いマシンだ。余談だが、後に沖縄返還に伴いこの賭博機を遊技機にするにあたり、コインの大きさを真似たために沖縄では30パイ仕様になったといわれている。

その後、駐留軍がこのスロットマシンを引っ提げ本土にも出回るようになる。しかし沖縄とは事情が異なり、本土では日本国の営業許可がないと不正機となってしまう。もちろんこのスロットマシンをパチンコ機と同じように営業許可を取るべく働きかけるものも出てきたが、1954年に初めて当時の警察庁防犯課長がある見解を示した。その回答は「スロットマシン機については、技術介入の余地が乏しく、単なる機械自体の偶然性により賞品の得喪を争うことが主であるように思料される。従って、遊技場営業における設置機械として適当でないものと考える」と、遊技場営業に設置する事を明確に否定していた。つまり、技術介入性がなく「賭博機」に値する為、設置を認める事が出来ないとしたのだ。この見解により、アメリカ製スロットマシンの本土での設置への道は閉ざされてしまった。

しかしそこで諦めるのではなく、ならば 「技術介入性」を取り込もうという研究が始まった。それから10年の時を経て、ようやく公安委員会が正式にセガ製「オリンピアスター」を認可することとなる。許可が得られた最も大きい理由は「ストップボタン」を搭載した事で、技術介入性が認められたからに他ならない。また、この「オリンピアスター」 には今のようなボーナスゲームが搭載されておらず小役を揃えるのみのゲーム性であったが、さらに改良を加え後に登場した 「ニューオリンピア」には、現在のRBのようなボーナスゲームが搭載されている。そして以後、この「ボーナスゲーム」が主流になっていく。ただし、「オリンピアマシン」は目押しが上手ければ高確率で図柄を揃える事が出来た為、一般にはあまり普及しなかった。

2. パチスロの誕生
オリンピアマシンはあまり普及しなかったものの、ここからさらに各社の研究開発は進んだ。進化を続けた1977年、マックス商事が現在のパチスロの基本ともなっている3メダル5ライン機の「ジェミニ」を発表。「オリンピアマシン」で弱点と言われていた目押しによる図柄揃えを防止するため、ストップボタンを押してから実際に止まるまでランダムに時間をズラす物理的な機能を加えられているのも特徴だ。この頃になると、「オリンピアマシン」ではなく、「アメリカンパチンコ」と名称が変化し、ゲーム性も現在のパチスロに近くなっている。そして遂に1980年、革命的な機種が登場する。

奇しくも世間がフィーバーブームに踊る1980年に、2つの伝説的な機種が登場した。ひとつはユニバーサル(現ユニバーサルエンターテインメント)製「アメリカーナ」、そしてもうひとつは尚球社(現岡崎産業)製「パチスロパルサー」である。両者の最大の特徴は「ステッピングモーター」を採用している点だ。このステッピングモーターの採用により、レバーを叩いた時にフラグ抽選をし、その結果によってリールを停止させるという現在のパチスロのスタイルが確立されたのだ。また筐体についても「パチンコ型スロットマシン」として、それまでの面長からパチンコ機と同じ大きさの箱型になり、それまで設置面の不便さから敬遠してきたパチンコホールも、その扱い易さから徐々に導入を検討するようになった。ちなみにこの「パチンコ型スロットマシン」を略して「パチスロ」という名称が生まれ、一般化していく。このパチスロはその後、九州で本格的に導入が開始、それから飛躍的に認知度を上げてくこととなる。

ちなみに5年後の1985年には、日本のユニバーサル社(現ユニバーサルエンターテインメント)が、バーチャルリール実現のために「ステッピングモーター」を採用したリールマシンを、ラスベガスに初めて投入している。そしてステッピングモーターは他社製品にも瞬く間に普及し、現代のスロットマシンでは必須要件となる。アメリカ本土発のスロットマシンは輸入された日本で進化し、ついに日本発の技術が本家アメリカの革命をも成しえた瞬間であった。

3. 0号機から1号機へ
1980年、パチスロとともに産声をあげたのが「日本電動式遊技機工業協同組合(日電協)だ。設立当時の加盟企業は10社、初代理事長に高砂電器産業の濱野準一氏が就任した。設立後、組合では数回に渡って「オリンピアマシンショー」という合同展示会を開催している。当時はフィーバーブームの残る頃ではあったが、1981年にはパチスロの全国設置台数が2万4千台、1983年には9万7千台と、市場を少しずつ固めていった。

そして1985年、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(新風営法)」が施行。ようやくここで法律上の中で「パチスロ」が「回胴式遊技機」として記載される事となり、同時に「財団法人 保安電子通信技術協会(保通協)」による型式試験が正式にスタート。ここから俗に言う「1号機」時代が始まった。なお、「0号機」は「1号機」以前の機種を総称したものを指す後付けの造語のようだ。

この保通協の型式試験を通過して「1号機」 第1弾となったのが高砂電器産業製「ワンダーセブン」、ユニバーサル販売製「アメリカーナXX」、北電子製「キャスター」、東京パブコ製「アーリーバード」の4機種。「1号機」のゲーム性としては、完全抽選方式ではなくメダルの差枚数が一定に達する事でボーナスフラグが成立するという吸い込み方式が採用されていた。今でいう所の天井が、連チャン時には短く、ハマリ時には長く選択される仕組みだ。また、4号機までスタンダードとなっていたビッグボーナスの仕組み「小役ゲーム30G・JACゲーム3回」という仕様もこの時には既に存在していた。ただし打ち方は若干異なり、ボーナスゲーム中には1枚コイン投入、1リールストップボタン停止、JACが停止で15枚払い出し、を繰り返す打ち方だ。また、ビッグボーナスの獲得枚数も純増方式になっており、概ね360枚で終了、打ち止めとなる仕様だった。

その後、普及した1号機には攻略法が出たり、不正改造による「裏モノ化」などが問題となり、こうした中、危機感を持った日電協は1986年、全国ホールのパチスロ健全化の為の基盤封印作業を開始するが、これでも不正改造は後を経たない。これを受けて主基盤の不正改造防止対策を取り入れた 「1.5号機」が投入される事となるのだが、これ以降のパチスロの歴史については時期を改めてまた詳しく書いていきたい。

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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