代名詞は「カミソリシュート」 社会人時代のサヨナラ被弾を糧に成長した 元大洋投手の平松政次さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(3)

1970年8月の巨人戦で完封勝ちした。通算201勝のうち51勝を巨人から挙げ、「巨人キラー」と呼ばれた

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第3回は元大洋(現DeNA)投手の平松政次さん。プロ入り前、社会人時代に浴びた苦い「一発」が成長の糧になったという。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽このままでは社会人を「卒業」できない

 1966年に日本石油(現ENEOS)へ入社した。その前年に日石は新加入の2投手で産別(日本産業対抗大会の通称、社会人日本選手権の前身)に優勝していた。私がいなくても、その2人で十分素晴らしい成績を挙げただろう。
 普通なら「センバツ優勝投手が来たからって、冗談じゃない」と意地悪なところがあるものだ。けれども野球部の先輩は紳士がいっぱいだった。いじめもなければ、文句を言うわけでもなし。今考えると、本当に野球を楽しく一生懸命やらせてもらった。(平松さんの加入で)女性ファンから注目を浴びるチームになり、試合でお客さんが増えた。他の若い選手たちもやりがいがあっただろう。
 当時の監督は早大出身で、思い切った戦略ができる優秀な方。野球をよく知っておられた。メンバーもそろっていて、66年は岡山大会と大阪大会を制し、都市対抗予選も負けなし。本大会を優勝候補で迎えたが、準決勝の熊谷組戦でリリーフした私がサヨナラ3ランを打たれてしまった。

67年の都市対抗大会で力投。決勝では完封勝ちし、本塁打も放った

 社会人野球の大会や活動をほとんど知らずにいて、都市対抗も入社して初めて、すごい大会だと分かった。あそこで打たれたショック、悔しさがばねになって、2年目に巻き返したい気持ちがどんどん高まっていった。このままでは社会人を「卒業」できないと、燃えるものがあったから努力できた。
 朝起きて走ってから出社。それからグラウンドでみっちり練習して、また夜も走って。1日野球漬けだったことが体力的にも精神的にも非常に良かった。目標はもちろん都市対抗優勝で、それが達成できれば次はプロへ、という思いが1年間切れることはなかった。

 ▽目で見て学び、課題克服

 65年にドラフト制度ができて、希望していた巨人に指名されず、社会人野球に進んでチャンスを待った。いろんな人からもアドバイスを受けた。高校からプロに行くのは失敗するケースがよくあるから、大学や社会人で力を付けるのも一つの手だよと。段階を上がっていけたのが、全てにおいて良かった気がする。 
 大洋からドラフト指名されて保留し、67年の夏に都市対抗で優勝した。その数日後にプロ入りしたが、初登板でアマチュアとの力の差をすごく感じた。
 私は岡山東商高時代からノーコンで有名だった。球は速かったが、制球の悪さは自覚していた。とにかくどこへいくか分からなかった。65年に春の甲子園大会で優勝した時も、1回戦のコザ(沖縄)戦で第1球がとんでもないボールなら全て終わり、ストライクが取れたらそこそこ、というくらいコントロールに不安があった。都市対抗を制覇した際に計42イニングで無四球だったのも、力任せにど真ん中に投げていったからで、不安はずっとあった。プロに入って、やっぱり甘い球はぼかぼか打たれた。

71年。25勝の前年に続き、17勝で2年連続最多勝に輝いた

 68年のキャンプの時だ。前年に18勝のエース、森中千香良さんが私のピッチングを見て「何だ、そんな球しか投げられないのか」と言って「俺のピッチングを見とけ」って。鳴り物入りで入団した私を随分心配してくれたのかなと思って、ありがたかった。そこで投球フォームを見た時、何かがパッと見えた。ヒントを得たのだ。森中さんはリリースが常に一定していた。まず狂いがない。それを見て「なるほど、ここで球を放すんだ」と分かった気がした。
 技術面は人のまねから入った方がいいと、よく言われる。私はオープン戦で小山正明さんや村山実さんら好投手が試合に出ていると、観察して投げ方を頭に焼き付け、宿舎に帰って思い浮かべながらシャドーピッチングをやった。そういう練習法が、森中さんのピッチングを見た時にちょうどはまったのだと思う。68年は5勝と良くなかったが、翌69年のキャンプで、私の代名詞となったシュートを覚えるのと並行して、外角低めに投げられるようになった。
 

84年5月に通算2千奪三振を達成。帽子を上げて観客に応える

 この2年間でプロとしての全ての力が備わったと感じる。25勝で最多勝の70年は、そこそこセ・リーグのトップランクにいたと思う。制球と切れ、速さは江夏豊や堀内恒夫、松岡弘らと遜色ない球を投げていた。

 ▽みんながカバーしてくれて脚光を浴びた

 甲子園と都市対抗の優勝投手になり、名球会入りも果たしたのは平松だけと言われるが、一人の力では勝てない。野手が守って必要な時に点を取り、みんながカバーしてくれて、私がたまたまマウンドで脚光を浴びた。

 大洋で200勝させてもらったが、もともと肩に不安があり、あれだけ投げたら故障は肘とか腰にも抱えてくる。投球回数を抑え、球数を制限するのは正解だ。周りから見ていると物足りないだろう。でも、選手が長くプレーするためには酷使しない、無理をさせないことが秘訣。私は相当投げまくり、肩もどんどん壊れてしまった。投球回も3千を超えた。3千回以上はプロ野球でも30人足らずしかいない。金田正一さんや米田哲也さんの5千回超えは、もう怪物だ。
 今のように6、7回ぐらいで球数制限していたら200勝はできていないだろう。でも「鉄は熱いうちに打て」と言われる。私は70年代前半までに“鉄を打って”もらったので、それなりの成績が挙げられた。満足はしている。

2017年、野球殿堂入りが決まり、あいさつする平松さん

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 平松 政次氏(ひらまつ・まさじ)岡山東商高時代に1965年の選抜大会で優勝。日本石油で67年の都市対抗大会を制した後、ドラフト2位で入団を保留していた大洋に加入。「カミソリシュート」を武器に70年から2年連続で最多勝。83年10月に200勝を達成し、84年に引退。通算201勝196敗16セーブ。47年9月19日生まれの74歳。岡山県出身。

第1回(宮本慎也さん)はこちら

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第2回(小久保裕紀さん)はこちら

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