無条件降伏と全生庵「高岡発ニッポン再興」その16

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・「江戸城無血開城」の立役者、山岡鉄舟が創設者の全生庵は、もう一つの大きな政治決断、日本の「無条件降伏」にも関与。

・血盟団事件に関わった四元義隆は、高僧・山本玄峰の講和を受け、座禅を組み事件を反省。「終戦決断」につなげた。

・全生庵をめぐる日本を救った2つの政治決断。政治家の端くれとして、私もさまざまな政治決断を下さなければならない。

前回お伝えした、山岡鉄舟は1883年に全生庵を建立しました。明治維新で殉死した人たちを弔うためです。

江戸城無血開城の立役者だったわけですが、日本の近現代のもう一つ、大きな政治決断、無条件降伏にも、全生庵が関与しています。

山本玄峰と呼ばれる高僧が水面下で動いたのです。

全生庵住職の平井正修さんは「中曽根先生が座禅なさったのは、四元義隆さんの紹介です。四元さんは、山本玄峰老師の弟子だった」と話します。玄峰は静岡の龍沢寺住職でしたが、上京してこの全生庵で法話していたのです。

写真:全生庵の平井正修住職(左)と筆者。筆者提供。

四元は右翼の大物です。近衛文麿や鈴木貫太郎ら首相の秘書を務め、戦後は「政界の黒幕」と呼ばれ、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らの懐刀となりました。その影響力は長く続き、中曽根、そして細川護煕をも指南しました。

若き日にはテロリストでした。1932年に蔵相の井上準之助と三井財閥総帥の團琢磨を暗殺した血盟団事件に関わり、収監されました。その裁判で弁護をしたのが、既に高僧として知られていた山本玄峰でした。

血盟団事件の被告たちは私心なく日本を救いたい一心だった、と法廷で主張して減刑を求めたのです。四元に下された判決は、無期懲役の求刑に対し懲役15年でした。

その後、山本玄峰は頻繁に小菅刑務所を訪ね、講話していたのです。そこに収監されていた四元には、この講話が大きな戒めとなり、血盟団事件を反省し、寝る間を惜しんで座禅を組んだのです。四元にとって玄峰は、親以上の存在となったのです。

山本玄峰は太平洋戦争について「このような無理な戦争をしてはいけない」と、開戦当初から反対していました。龍沢寺には、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人といった有力政治家だけでなく、戦後に学習院院長になった自由主義者の安倍能成、岩波書店創業者の岩波茂雄らも出入りし、あたかも反・東條英機の砦のようでした。

写真:雪蹊寺にある山本玄峰禅師の胸像

出典:Reggaeman / Wikimedia Commons

玄峰は、「わしの船は乗合船じゃ。村のばあさんも来れば乞食もくる。大臣もくれば、共産党もやってくる。みな乗合船のお客じゃ」

しかし、東條との面談だけは拒みました。

「我見にとらわれたまま会っても、わしの言うことは分からんじゃろう。せめて幼稚園の子供のような心境になって、全てを捨て切った東條さんなら、わしの言うことも多少は分かるじゃろうが」

そして玄峰はいよいよ、終戦工作に動きます。恩赦で出所した四元は42年ごろから「東條を倒さなければ、日本民族が滅びる」と考え、重臣との面談を重ねていました。その中で最も感銘を受けたのが、枢密院議長の鈴木貫太郎でした。

45年3月下旬、山本玄峰は四元の仲介で、鈴木と面談しました。当時、鈴木は首相の職を受けるかどうか悩んでいたのです。四元は後のインタビューで、こう語っています。

「玄峰老師が真っ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『すぐやめな、いかんでしょう』と、意見が一致したんです」

その10日あまり後の4月7日、鈴木は首相に就任したのです。それからの4カ月は鈴木にとって、陸軍との駆け引きの毎日でした。本音では戦争終結を志向しながらも、それを表に出すと、クーデターを誘発しかねない。戦争遂行のふりをしながら、チャンスを待ったのです。

鈴木は8月12日、玄峰に使者を通じて終戦の決定を下したと伝えました。玄峰はこの日すぐに手紙を書きました。

「貴下の本当の御奉公はこれからでありますから、まず健康にご注意下され、どうか忍びがたきを忍び、行じがたきを行じて、国家の再建に尽くしていただきたい」。

昭和天皇は8月15日の玉音放送で「忍び難きを忍び…」と国民に語り掛けました。3日前の玄峰の手紙がベースとなったと伝えられています。

私は前回と今回、全生庵をめぐる2つの政治決断について書かせていただきました。「江戸城無血開城」と「無条件降伏」です。私は政治家の端くれとして、さまざまな政治決断を下さなければなりません。

トップ写真:全生庵 筆者提供。

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