今週の1本 To Kill a Mockingbird(邦題: アラバマ物語)

映画監督・鈴木やすさんが、思い出の映画作品を、鑑賞当時の思い出を絡めてゆったり紹介します。


O・J・シンプソンが前立腺がんで死んだそうだ。忘れかけていた記憶がいやが応でも甦った。ちょうど30年前、当時の米国社会では数年間にわたりO・J・シンプソン事件と裁判の話題から逃れることができないほどだった。

あの事件の数年前に起きたロサンゼルス警察によるロドニー・キング集団暴行事件とその裁判を発端にしたロサンゼルス暴動によって当時の米国社会は人種間の分断と軋轢が圧力釜が破裂したように爆発した。その時期に起きたシンプソン事件と裁判で感じた複雑にねじれた正義感に引き裂かれるような感情をまた再び思い返してしまった(正直、思い返したくなかった)。

ニューヨークに渡って数年しか経っていなかったナイーブな僕に突きつけられた米国社会の厳しい現実への洗礼のようであった。そして当時の僕はリーズナブルダウト、「合理的疑い」という日本ではあまり聞いたことのないコンセプトをあの裁判で初めて知った。

最近、地方判事を務める友人からこの合理的疑いというコンセプトと米国の司法の哲学についてじっくりと話を聞くことができた。ビジネスやスポーツの世界で一番重視されるのは結果である。キレイごとをいくら並べても結果を出せなければその世界で残ることはできない。しかし、司法の世界で一番重要視されるべきなのは結果(評決)を出すまでのプロセスにある。たとえ原告側、被告側、そして社会の多くの人たちにとって納得のいかない評決になろうとも、正しいプロセスの道を少しでも外して評決を下すことはできない。それは民主主義そのものの根幹に位置する哲学でもあるのだ。米国の裁判所から陪審員として召喚されるとあるビデオを見せられる。

中世のヨーロッパでは魔女ではないかと疑われた女性に対する裁判プロセスは被疑者を縛りあげた上で湖や川に投げこむことであった。女性が水面に浮かんでくれば有罪、魔女として火炙りの刑が待っている。浮かんでこなければ無罪、どちらの評決が下されても疑われた時点で死罪が確定していた。そんな時代に絶対に戻らないためにも証拠に基づいた正しい裁判のプロセスは絶対に守らなければいけないのだ。

今回の映画は、人種差別の激しかった1930年代の米国南部を舞台に司法の哲学を貫き通そうとする弁護士とその家族の物語である。

権利の均衡

アラバマ州の小さな町で弁護士を営みながら二人の小さな子供を育てるシングルファーザーのアティカス・フィンチは、町の貧しい黒人青年が白人女性に対する婦女暴行の疑いをかけられた裁判の弁護を担当することになった。多くの証拠は黒人青年の無実を示しているにもかかわらず陪審員、判事、町の白人住民たちは黒人青年の有罪を望んでいる。そして裁判で一人果敢に正義を守ろうとする父を、二人の幼い子供たちは誇らしげに見守りながら育っていく。

司法の場ではあってはならない冤罪を防ぐためにも、捜査をする側と、捜査をされる側は必ず均衡した権利を持たなければならない。ところが日本では警察、検察権力が明らかに被疑者よりも権利の大きい不均衡な状態になっているのが明白だ。

日本の警察、検察に逮捕、起訴された被疑者のなんと99%に有罪の評決が下る。人間の行う捜査でこの割合はありえない。そして、米国では財力と名声を持った被疑者が、敏腕弁護士を雇って殺人の罪から逃れられることもあり得てしまう、O・J・シンプソンが死後にどこに行こうとも、本当の真実を魂に背負って行かなければならない事からは逃れることはできないだろう。

今週の1本

To Kill a Mockingbird(邦題: アラバマ物語)

公開:1962年
監督:ロバート・マリガン
音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:グレゴリー・ペック、メアリー・バダム
配信:DVD

1930年代、人種差別の激しい米国南部で貧しい黒人青年の弁護に挑む弁護士とその家族の物語。

(予告はこちらから

鈴木やす

映画監督、俳優。1991年来米。ダンサーとして活動後、「ニューヨーク・ジャパン・シネフェスト」設立。短編映画「Radius Squared Times Heart」(2009年)で、マンハッタン映画祭の最優秀コメディー短編賞を受賞。短編映画「The Apologizers」(19年)は、クイーンズ国際映画祭の最優秀短編脚本賞を受賞。俳優としての出演作に、ドラマ「Daredevil」(15〜18年)、「The Blacklist」(13年〜)、映画「プッチーニ・フォー・ビギナーズ」(08年)など。現在は初の長編監督作品「The Apologizers」に向けて準備中。facebook.com/theapologizers

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