暗殺された7人の総理大臣 【安倍元総理は戦後初】

伊藤博文

画像 : 伊藤博文 wiki c

伊藤博文は、日本の初代内閣総理大臣である。

1、5、7、10代と4度にわたって総理大臣を務め、一次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となった。

明治42年(1909年)10月26日、中国黒竜江省ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。(享年68)

すぐに絶命はせず「3発当たった。相手は誰だ?」と叫び、相手が朝鮮人だと知ると「俺を撃ったりして馬鹿な奴だ」と話し、30分後に息を引き取ったという。

暗殺に関しては単独説の他に謀殺説もあり、当時の日本の韓国併合政策への反発が暗殺理由の通説とされている。

原 敬

画像 : 原敬 wiki c

原敬(はらたかし)第19代内閣総理大臣である。

大正7年(1918年)に総理大臣に就任。

それ以前の総理大臣は全員華族であり、原は平民であったため「平民宰相」と呼ばれ親しまれた。

しかし、1921年(大正10年)11月4日、原敬は東京駅で鉄道省山手線の職員・中岡 艮一によって刺殺された。(享年65)
傷は心臓に達しており、ほぼ即死状態であった。

中岡の犯行の動機ははっきりしていないが、原敬首相に反感を抱く人物が上司におり、それに影響されたと言われている。

中岡は無期懲役の判決を受けたが、1934年に出獄し、後に中国へ渡りイスラム教徒となり、戦後に帰国。1980年に77才で死去している。

高橋是清

画像 : 高橋是清 wiki c

高橋是清(たかはしこれきよ)は、第20代内閣総理大臣である。

大正10年(1921年)に総理大臣に就任。

大臣時代から財政に明るく、総理としてより大蔵大臣時代の評価が高い。

日本ではじめて財源確保のための赤字国債を発行し、公共事業を増やすことで景気の回復を図り、「金融の天才」「日本のケインズ」などと評された。

総理を辞任した後も、その手腕から1931年、犬養毅内閣に入閣して4回目の大蔵大臣に就任。

積極財政施策で世界恐慌から最速で日本経済を復活させるなど大きな功績を上げるが、インフレ兆候が見られたため軍事予算の縮小を図ったところ、軍部の恨みを買い、かの有名な2.26事件で暗殺された。(享年81)

濱口雄幸

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濱口雄幸(はまぐちおさち)は、第27代内閣総理大臣である。

昭和4年(1929年)に総理大臣に就任。

第一次世界大戦後の好景気が終わり、昭和2年に起こった金融恐慌により国内は長い不況であり、濱口は経済政策を主眼としていた。

不況を脱するためには金解禁が必要と考えて強硬に推し進めたが、より深刻なデフレを招き経済失政であると評され「嵐に向かって雨戸を開け放つものだ」と批判された。

また、「ロンドン海軍軍縮条約」において軍縮したことでも多方面から批判されていた(※統帥権干犯問題)

昭和5年(1930年)11月14日、神戸行き特急に乗るために東京駅のホームを移動中に、昭和の右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄に銃撃された。

銃撃されたものの命はとりとめ、その後退院し貴族院にも出席していたが、容態は徐々に悪化。

昭和6年(1931年)8月26日に傷口の化膿が原因で死去した。(享年61)

犯人の佐郷屋留雄は死刑判決を受けたが、1934年に無期懲役に減刑され1940年に仮出所、その後も右翼活動を続け全日本愛国者団体会議の初代議長となり、1972年に肝硬変で死去している。

犬養 毅

画像 : 犬養毅 wiki c

犬養毅(いぬかいつよし)は、第29代内閣総理大臣である。

昭和6年(1931年)に総理大臣に就任。

犬養毅は、「統帥権干犯問題」(とうすいけんかんぱんもんだい)で有名な人物である。

統帥権干犯問題とは、1930年(昭和5年)4月末に開催された帝国議会衆議院本会議で、当時野党であった政友会の犬養毅総裁と鳩山一郎とが政府を非難する発言を行ったことで表面化した問題である。

これは当時の濱口内閣が調停した「ロンドン海軍軍縮条約」に対する批判で、要するに「軍縮を内閣主導で行って良いのか?天皇の元で行われるべきではないのか?」という指摘であった。

これに対し、濱口首相は「実行上、内閣は統帥権を委任された立場にあり、軍縮条約を結ぶことに問題はない」として、統帥権の干犯には当たらないとこを明言した。

しかしこの「統帥権干犯問題」は「軍は内閣からの干渉を受けない」という風潮の黙認へと繋がり軍部の暴走を招き、後に犬飼自身が、1932年の五・一五事件で決起した青年将校に殺害されてしまったのである。(享年76)

野党時代の犬飼は軍部側に感謝される立場であったが、総理に就任し与党側の長となったことで青年将校たちの標的とされてしまったのである。

齋藤 實

画像 : 斎藤 実 wiki c

斎藤実(齋藤 實 さいとうまこと)は、第30代内閣総理大臣である。

昭和7年(1932年)に総理大臣に就任。

犬養毅が、前述した海軍将校らによって殺害された五・一五事件の後の総理大臣である。

満州事変」「国連脱退」「5.51事件」など難しい政局に対処しながら、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣を総辞職した。

その後、斎藤は内大臣に就任したが、皇道派の陸軍青年将校から天皇をたぶらかす重臣ブロックとして目の敵にされ、1936年(昭和11年)二・二六事件において斎藤は殺害されてしまった。(享年77)

前述した当時大蔵大臣だった高橋是清も、二・二六事件において亡くなっている。

安倍晋三

画像 : 安倍晋三 内閣広報室より公表された肖像 wiki c

安倍晋三は、第90・96・97・98代内閣総理大臣である。

平成18年(2006年)に総理大臣に初就任。

第一次安倍内閣では、小泉構造改革を引継ぎ加速、補強していく方針を表明し、国家像として「美しい国」を提示。

しかし2007年の第21回参議院議員通常選挙において自民・公明党は歴史的惨敗を喫し、参議院第1党の座を民主党に奪われた。「ねじれ国会」
その後、体調の悪化により総辞職。

2012年の第46回衆議院議員総選挙では自民党が圧勝し、再び政権与党となる。(第2次安倍内閣)

その後、アベノミクスとして「三本の矢」を主軸とした経済政策を掲げ、強力なリーダーシップを発揮。

2020年の第4次安倍内閣まで総理を続け、連続在職日数は2822日、通算在職日数は3188日、いずれも歴代最長を記録している。

安倍晋三銃撃事件(7.08事件)

令和4年(2022年)7月8日午前11字31分頃。
安倍元首相は、奈良市内の大寺駅付近にて街頭演述中に、元海上自衛官・山上徹也容疑者により銃撃を受けた。

銃撃は2発であり、同日17時3分、失血死のため死亡が確認された。(享年67)

山上容疑者は「安倍元総理に対して不満があって、殺そうと思って狙った」、「政治信条への恨みではない」「ある宗教団体幹部を襲撃する予定だった」と供述している。

首相経験者の暗殺は戦後初であり、1936年の二・二六事件以来86年ぶりとなる。

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