生まれたての声【下】 誰もが被差別の順番待ちだ!

◆幸せで住みやすい社会って?

私は、世の中が「普通の人のための規格」でできていると考えている。大多数の人間が過ごしやすいように建築や社会制度が設けられている。だから、規格に合ってない人が違和感を感じるのは当然だ。車椅子に乗っている人がスロープのない入り口に苦戦するのは、単にそれらが彼ら向けに作られていないからだ。

日本は資本主義の国である。乱暴かつ大胆に言ってしまえば、この国においてはお金を稼ぐことが正義で、経済効率の良くないものは悪とされている。そんな状況において一つ一つを少数派のために作り替えることは、時間とお金がかかるため、悪とみなされかねない。先ほどのスロープのない入り口の例もそうだ。少数意見に応えて新しく車椅子用のスロープを作ることを、コストと時間の浪費と考える人はいる。その考えは正しいのか、正しくないのか。
サークル会場であるあの部屋の中は、ろう者基準、ろう者規格の社会ができあがっていた。だからその空間にいた私は規格から外れた少数派であり、手話の聞こえない障がい者だった。

人は大勢いるのに自分だけ孤独。それは、世の中のこんな場面に置き換えられる。例えば、災害時。周りがみんな避難しているのに1人だけろう者が取り残されている場面。例えば街中。後ろから呼びかけられても聞こえなくて、無視されたと勘違いした人に押し飛ばされる状況。例えば就職活動中。本当はハンディキャップのせいなのに、そこを明示されないまま、選考から外れていく状況。

同じ部屋にいることは知っているはずなのに、声をかけてくれなかった。同じ国にいるはずなのに、誰も助けてくれなかった。そういった人々の心が、彼らと私の違和感や疎外感を作り出していたのだ。

◆太田さんへのインタビュー

手話サークルに参加した私は、違う角度でさらに知りたいと考えた。思い当たったのは、私と同じバイト先で働く太田翔さん(仮名)だった。彼はてんかん症状を抱えていた。同じ職場で働いていても、見えているものは人それぞれに違う。太田さんから見た多数派はどのようなものなのだろうか。

15時、彼の最寄駅の改札前で待ち合わせをした。真面目そうな、馴染みの顔が現れた。ともに調査を進めている女性と2人、近くのファミリーレストランで向き合う。

彼の病名は正確にはてんかんではなく、本当は長い名前があるらしい。生活の中でたびたび発作が起こる。それ以外は至って普通の生活を送っている。発作が出ない限り、ろう者と同じように、太田さんのハンディキャップは他人にはわからない。発作が起きると、太田さんは1分間ほど言葉を発することができなくなる。声を出したとしても支離滅裂な内容になってしまう。その間は、意識に靄がかかったようになり、何が何だかわからなくなってしまうという。一度、バスの中で発作が起こった。わけが分からなくなって席に座っていると、目の前の老人に足を蹴られた。席を譲らなかったことに腹を立てたのだろうと彼は語った。

太田さんとの話の中で、私は何度も当たり前のことに納得した。それは、話を聞いてみないと相手がどんなことを考え、どんなことに悩んでいるかは分からない、ということだ。

もし、バイト先で太田さんに話しかけていなければ、私は太田さんが病気を抱えていることを知らなかった。太田さんの症状が、黙り込んでしまうものだということも知らなかった。知らないままでいたら、彼のようなハンディキャップを持った人を無知ゆえに拒絶する人間になっていたかもしれない。

同じような当たり前は、ろう者からも実感した。彼らの世界に飛び込んでいったから見えてくる世界があった。彼らには当たり前のようにパーソナリティがある。楽しいと感じることももちろん同じである。手話にも抑揚や調子を表現する方法があった。

全て、自分が直接聞いたからこそ得られた実感である。知らないことを知ることの面白さの一つはここにあった。

太田さん(撮影:小山修祐)

◆僕らの物差しで測れない

太田さんの話で、いくつか驚いたことがあった。

彼は中学時代いじめに遭っていた。それを語る表情や態度からひどいものだったことは容易にわかった。そんな時に、てんかん症状の原因に当たる脳の腫瘍が見つかったという。とても不運な出来事のように思えたが、彼からすれば、とてもラッキーだった。入院によって、自分をいじめる人と離れることができたからだ。

2つ目の驚きは、てんかん症状についての太田さん自身の認識についてだ。彼から見れば、発症しても特につらいことはなく、「これくらいなら(どうってことはない)」と思った。入院している頃は自分よりもつらそうな人が周囲にいた。だから、自分だけが特別につらいと思ったことはないのだと語ってくれた。

当事者と部外者でこれほどまでに認識が違っているとは思いもよらなかった。私の想像よりも、本人たちはいくらか楽観的で、神秘的で、魅力的だった。どれもこれも全て、自分で掴みにいったからこそ得られた世界の面白さだった。

◆2回目の手話サークルで起きたこと

太田さんへの取材を終えた私たち2人は、数日後にまた手話サークルに参加していた。今回は前半がレクリエーション、後半は私たちの質問時間だった。

レクリエーションは、小学校で行われるそれと大差ない。割り当てられた班の中で議論し、雪山で生き残るために10個の道具について大切さの順位を決めるという内容だった。班の中にはもちろん、ろう者の人もいた。私は時に彼らに手話を教わりながら、指さしや身振り手振りを使ってどうにか議論に参加した。全員が各々の思いを手話で表現し、全員でそれを聞き取れるように努力した。

私たちが質問するタイミングになり、2人はホワイトボードの横に椅子を持っていった。質問は、相方の女性が考えたものだ。

まず彼女は、健聴者に覚えておいてほしい手話があるかと尋ねた。彼らの回答は1つだった。単語よりも重要なのは伝えようとする意思であり、必須の単語などはないということ。ろう者は口話や表情を重点的に見ているから、どこかで出会った時はゆっくりと身振りや指差しなども使ってコミュニケーションを取ってほしい、と。あとは筆談の準備などがあってもよいという。

必要なのはゆっくり時間をとって応答する心の余裕なのかな、と私は考えていた。私のバイト先のレジの下には必ず筆談用のボードや紙が入っている。これを使ったコミュニケーションはとても時間がかかり、面倒なものだと思う気持ちもわかる。混雑している時にそんな対応が必要になったらこちらがパニックに陥ってしまうかもしれない。だが、そういう時にも落ち着いて、筆談などで会話に努めることで私は初めて彼らの支援者になれるのだと思う。
「助けてあげよう」ではなく、「話をしよう」。私はそうしようと思った。

2つ目の質問。手話サークルに参加している健聴者に対して、なぜ参加したのかを尋ねた。

私は初めてサークルに参加した前回、健聴の参加者には耳の聞こえない親族がいるのだろうと勝手に思っていた。だが、そんな話は一度も出てこない。ある人は、小学生時代に見た手話がかっこよく見えたからと答え、ある人は職場のろう者と話したかったからと言った。もちろん手話で。健聴の参加者は全員、人生のどこかのタイミングで手話に魅了され、話してみたいと思いこの世界に飛び込んできた人たちだった。

私は単純に「すごい」と思った。好奇心や知りたいという気持ちを行動に移し、それが実を結んでいることを。彼らの心には、ろう者と健常者の壁なんてはなからなかったのだろう。手話を話せることがさらにかっこよく見えた。

私は会の終わりに代表者の石田さんを呼び止め、来週からも続けて勉強させていただきたいと伝えた。

◆ビル3階の駅のホーム

サークルが終わり、私は駅へと向かった。

その街には駅が2つある。JRの新杉田駅と京浜急行電鉄の杉田駅だ。用があった私は会場から少し離れているJRの駅に向かった。商店街を抜けると、道の先に踏切がある。新杉田駅の改札は踏切の右手に立つビルの3階だ。

その日は、商店街を歩いている時からすでに違和感があった。いつもより、駅の反対方向へ向かう人が多い。サイレンの音が絶えず鳴っている。普段聞かない騒めきがあった。商店街を抜けると、目の前の踏切に電車が止まっていた。手前の道路には赤色灯をつけた車が並んでいる。ちょうど10分前にその踏切で事故が起きたらしい。

私はビルに入り、改札へ向かった。改札の前には、電車遅延の時にお馴染みの人混みがあった。イヤホンを外した私は、その時やっとその声に気がついた。あうあうという言葉にならない声が少し不気味なほど大きな音量で発せられていた。改札の横を見ると、駅員の方を向く見覚えのある後ろ姿。初めてサークルに参加したときに最初に入ってきた、小人帽子の女性だった。

駅員はマスクをつけながら棒立ちで、筆談用の紙も出していなかった。まるで何を言っているかわからないといった表情で、彼女と会話しようという態度さえも見せていない。周りを見ると、全員が全員、関わりたくないという顔でスマホをいじっていた。サラリーマンも、女子高生も、主婦も、おじさんも。その光景を私はやけに覚えている。

小人帽子の彼女はこの時、大勢に囲まれた孤独を感じていたのだろう。初めてサークルに参加した時の私のように。

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私はマスクを外して彼女の肩を叩いた。彼女は不安そうな表情で、目に涙を溜めていた。私は、練習していた手話で改めて自己紹介し、彼女の言葉を読み取ろうとした。しかし、何を伝えたいのかがわからない。どうにかスマホの文字や口話を使って言葉を紡いだ。電車が動き出すまであと1時間はかかること、もう1つの駅からならあなたの家の近くまで帰れること、自分には時間の余裕があるから駅まで送っていくこと。改札横で2人、静かな問答を続けた。

結果、彼女をもう1つの駅まで見送ることに落ち着き、私たちは歩き出した。世間話などできるわけはない。私は沈黙の中で考えごとをしていた。それは「もしかしたら、ろう者にのみ見えている世界があるのかもしれない」ということだった。先ほど見た彼女の表情は、私たちには見えない何かに怯えているようだったからだ。

健聴者もろう者も、楽しいことは同じ、言葉の調子も同じ、性格やパーソナリティの部分も同じ。ただ、ろう者の自分を見る健聴者の目だけが違っていたのだ。自分はここにいるのに誰も認識してくれない。助けを呼んでいるのにその声は不気味がられてしまう。強烈な孤独感を抱いていたことが表情から伝わった。

◆隣人を想像するということ

誰も彼もが、障がい者が世の中に存在することを知っているのに、自分の身の回りにいることを想像できていない。

1回目のサークルの最後に、私は3つ目の質問をした。

「私たち健聴者の、特に若者に求めることは何かありますか。」

すると、私のインタビュー依頼を断った、あの友人の母親がこう答えた。

地震などの災害があったときに、助けや知らせが必要な人が必ず近所に存在する。それは、耳の聞こえない人であったり、目の見えない人であったり、車椅子に乗った人だったり。そういった人たちのことを近隣のみんなで認知しておいて、いざとなったら助けに来てほしい。

そう、彼らは私たちの周りに確実に存在しているのだ。助けを求めている彼らが。

私たちは義務教育の過程で、障がいについて学んでいる。しかし、私たちの理解・想像・実感の不足によって、それらは机上のものにとどまってしまっている。世の中にいることを知っていても、同じ国に、同じ空間に、自分の隣にいるとは感じていない。それは、環境問題や貧困にも通ずる。温暖化が加速していることを知っていても、私たちはわが身のこととして考えることを面倒くさがる。何万人もの子どもが餓死していたって、私たちは食べ物を余らせ、腐らせ、近所の貧困児の腹が鳴る。

多数派の想像力の欠如によって、少数派の恐怖は増し、彼らとの壁は大きく高くなっていく。障がい者という概念を作り出したのは、私たち健常者なのだ。

私と小人帽子の女性は改札の前に着いた。「ありがとう」の手話を残して彼女は人ごみに消えた。

◆交わらない世界のために

ろう者だけが知ることのできる世界がある。それは私たちが見ているものと限りなく近いが、一点のみが明確に違っている。その違いを生み出しているのは、多数派の健聴者だ。彼らの存在を認識できないことが生み出す違和感や孤独感。その一点が彼らとの大きな壁のようなものを作り出している。

ろう者が話す手話も、日本語や英語と変わらない、ただの言語である。耳で聞くか、目で聞くか。そこに大きな差はないように思える。手話の振りのスピードや大きさの変化、口話と表情。これらを組み合わせることによって、耳で聞くのと遜色のないコミュニケーションを可能にしている。豊かな表情を用いる必要があるため、もしかしたら、手話の方が日本語よりも感情豊かで力強いかもしれない。

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私は初めて手話サークルに参加した時、違和感を抱いた。それは、いつもろう者が感じていたものと同じだったと思う。自分が多数派か少数派かは、裏表の関係にある。誰もがある場面では多数派であり、違う場面では少数派になり得る。

私が最初に感じた違和感は、健聴者の誰もが抱く可能性がある。世界から見れば、日本語の話者はごくごく少数である。日本人が海外に出れば、言語における違和感や孤独感は嫌でも感じるだろう。その時に、英語話者というマジョリティに無下に扱われたら誰だって悲しい。手話も日本語も英語も言語だ。その悲しみと同じものを日々抱いている人が、日本にも普通にいるのだ。私の近くにも、あなたの近くにも。

誰しもが状況によって多数派にも少数派にもなる。それを忘れて少数派を差別したり攻撃したりしていると、いずれ自分が標的になる。いつだって私たちは被差別の順番待ち状態なのだ。自分に番が回ってこないためには、自分が“攻撃しない多数派”になるしかない。だから、あの混雑した駅の改札で小人帽子の女性に声をかけたことを、いま、私は誇らしく思っている。

(小山修祐・大学4年)

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