災害ボランティアの先駆け 雲仙の造園工 宮本秀利さん死去 普賢岳復興支援に尽力

自身が考案し設置した記念碑の前に立つ宮本さん。後方は平成新山=2021年3月22日、島原市北上木場町

 雲仙・普賢岳噴火災害の復興や全国各地の災害支援に奔走した長崎県雲仙市の造園工、宮本秀利さんが12日、がんのため、72歳で死去した。1991年6月3日の大火砕流惨事の2日後、「雲仙普賢岳災害ボランティア協議会(現・NPO法人島原ボランティア協議会)」を設立。東日本大震災などの被災地にも赴き、支援の陣頭指揮を執るなど、日本の災害ボランティアの先駆け的な存在だった。

 同市瑞穂町の果樹農家に生まれ、県立島原農業高を卒業後、京都の造園業の名匠、故小島佐一氏に師事。帰郷後、宮本造園を立ち上げ、島原市を代表する湧水庭園「四明荘」の復元などを手がけた。2018年、「現代の名工」に選ばれ、19年には伝統文化継承などの功績をたたえる「島原半島文化賞」も受賞した。
 噴火災害当時、災害ボランティアという言葉がなかった時代。「できることをしよう」-。島原半島17市町の地域おこし団体代表だった宮本さんは同協議会を組織し、避難所のトイレ掃除から始めた。駆け付けた全国のボランティアの受け入れ窓口となり、救援物資の仕分けや配送も担った。
 その経験は、1995年の阪神淡路大震災などの大規模災害で生かされた。「島原の恩返しを」-。被災地へ足を運び、物心両面でサポート。親交が深い同協議会の前理事長で、NPO法人日本防災士会県支部の旭芳郎支部長(68)は「何はさておき災害現場へ駆け付け、何が必要か連絡をくれた。誰かのために動ける人」と惜しむ。
 噴火活動終息後は、荒廃した森林の再生に動いた。市民グループ「雲仙百年の森づくりの会」の会長として、地元高校生を巻き込んだ植樹活動を99年から始めた。災害の記憶継承と復興への願いを次世代に伝える思いからだった。
 43人が犠牲になった大火砕流から30年を迎えた昨年。報道陣らが犠牲となった島原市北上木場町の撮影拠点「定点」周辺の災害遺構整備にも尽力。報道陣への批判が地元に根強い中、宮本さんは祈りと感謝の思いを込めた記念碑を考案。不足した費用200万円超は自腹を切ったという。
 亡くなった消防団員の中には同級生や知人もいた。「災害経験の生かし方は、個人の課題でもあり、地域の課題でもある。どうフォローするかが生き残った者の使命」。碑を設置した当時、こう語っていた。
 共に遺構を整備した雲仙岳災害記念館の杉本伸一館長(72)は「リーダー的な存在で、人を受け入れてくれる人。古里への思いを引き継ぎたい」と評する。
 妻の新子さんは「ずっと気にしていた定点を昨年整備し、今年は百年の森づくりの植樹も一区切りして、ほっとしたのか、家族に『何もできんでごめんな』『今が一番幸せ』と話していた。たくさんの方の支えや助けがあったおかげで、豊かな人生を送ることができた」と話した。

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