情報と感情の波に流される
安倍元首相に対する銃撃、そして死去が報じられたのが2022年7月8日夕方のこと。
この書評が公開されるのが、事件から10日後。ようやく、初七日を過ぎた頃となる。「まだ10日しかたっていないのか……」というのが、多くの方の実感ではないか。本来はそれでもまだ10日、悲しみなりの各々の感情を内に秘めて熟成させるべき時期だ。
だが現在の情報環境はそれを許してくれない。
この間、あまりの衝撃に面食らった、ショックを受けたというだけでなく、事件発生直後からの「情報の波」に溺れかかっている人も少なくないだろう。
小出しにされる犯行動機や犯人の身辺情報に完全に踊らされ、「○×のせいだ!」「いや、△△が悪い!」と、24時間、常に誰かが叫んでいるという状態だ。
さらにSNSでは、「情報の波」と一緒に「感情の波」も押し寄せてくる。一人ではこの感情を抱えきれない。だからネットで「悲しい!」「つらい!」という気持ちだけでなく、「どうして重要情報を報じないんだ!」などと、四六時中ぶちまけるに至る。
その中で、事件のことを考えないようにすることは難しい。感情を抑圧することは、精神衛生上もよろしくない。
せめて、一定の距離感をもって客観的に事件を眺められないか。そのためにはどうすればいいのか。これも一種の「逃避」だが、安倍元首相が見舞われた事件を、歴史に位置付けて考えてみたいと思った。そこで手に取ったのが、ジョン・ウィッティントン著、定木大介訳『暗殺から読む世界史』(東京堂出版)だ。
人類史が始まってから今日まで、絶えず暗殺事件は起きてきた。安倍元首相の事件が「暗殺か否か」という議論もなくはないが、「何が暗殺に当たるのか」に、本書は明解に回答している。
人類史上続いてきた暗殺事件
本書は古今東西の暗殺事件を扱っている。〈世界で最初に暗殺された人物〉の有力候補として挙げられているのは、エジプトのファラオだったティティという人物。歴史家は「警護のものに殺された」としているという。
歴史の趨勢を変えたものとして必ず教科書に載っているのは、1914年、オーストリア大公のフランツ・フェルディナントと妻のゾフィーが青年活動家に殺害されたサラエボ事件。「第一次世界大戦の引き金となった」と説明されることが多いが、本書の説明では「なし崩し的にそうなっていった」という主旨を匂わせる。
この事件について読むと、「安倍元首相にとってせめてもの救いがあるとしたら、事件当時、昭恵さんが巻き込まれなかったことかもしれない」とも思う。
現在に近い例としては、1962年のケネディ大統領暗殺事件だろう。白昼堂々、公衆の面前で発生し、事件の一部始終が映像記録に残っていることからも、今回の安倍元首相の事件と重ねて思いだした人が多かったのではないだろうか。
「ケネディ暗殺」からわれわれが学べること
ケネディの項は〈マスメディアが注視する中で行われた史上初の凶行〉という見出しで始まり、こう書かれている。
(事件が起きた)1963年11月22日以降、何年もの間、「ケネディ大統領が撃たれたのを知った時、どこにいた?」というのは、よく耳にするありふれた質問だった。そして、訊かれた方はほぼ全員、その質問に答えることができたのである。
こうしたやり取りからは、近い将来の我々を見るようだ。それだけではない。詳しくは本書をお読みいただきたいが、シークレットサービス(要人警護担当者)の不備などを始め、ケネディ暗殺についての事件情報に、今回の事件との類似点を見出す人もいるのではないかと思う。
だからこそ気を付けなければならないのは、憶測に憶測を重ねた陰謀論の発生と発展だろう。ケネディ暗殺事件の陰謀論は、50年以上たった今も絶え間なく語り継がれ、新たな要素を加えながら日々「進化・深化」してしまっている。
ケネディ暗殺に関する機密文書は数百もあるというが、その公開を〈国家安全保障上「不可逆的な害を及ぼす可能性がある」という理由で、トランプ大統領が‐―ぎりぎりになってから――見送った〉ことも、陰謀論の「進化・深化」を後押ししている。
これまた、我々は「我が身を振り返らなければならない」だろう。すでにさまざまな、無関係な点と点を勝手に線で結び、「事件の真相」に迫ろうという「解説」が、ネットを中心に飛び交っている。
そうした人々はおそらく安倍総理のため、あるいは国のため、市民のためにやっている「つもり」なのだろうが、実際には人々の認知を撹乱するだけの結果しか生まない。
騒擾の時こそ、危機が訪れる
2022年6月3日にこの連載で紹介した木下健、オフェル・フェルドマン『政治家のレトリック』(勁草書房)に、こんな趣旨の一文があった。
イスラエル右翼指導者たちが、パレスチナと和平を結ぼうとしたラビン首相を「ナチス」呼ばわりしたことで、右翼によるラビンの暗殺が可能になった。
つまり、「ナチス」や「ヒトラー」とされたものは、時と場合によっては「亡き者にされてしかるべき存在」とみなされてもおかしくない、ということを意味している。
筆者はこれをツイッターで引用し、〈日本でも政敵を安易に「ナチス」「ヒトラー」になぞらえる人がいるが気を付けないと〉と記載した。
今回の事件は今のところ、犯人の供述から「宗教関係のうらみであり、政治思想による犯行ではない」とみられている。だが、犯人が本心を語っているかも、また客観的に検証可能な動機が明確な形で公開されるかも、今の時点ではわからない。
「反安倍の風潮が、事件を引き起こしたのだ」と断言し、糾弾するつもりは一切ないし、それを言うなら、いわゆる保守側も、政敵を「ヒトラー呼ばわり」してきたのは事実だ。
だが、それでも世の中には「(それが事実か否かは問わず)悪魔のようなやつ、とみなしたものなら命を狙われても仕方がない」と思い込む人もいる、という大前提は、やはり知っておくべきだろう。
それどころか、無差別殺人犯ともなれば、何の思想もなく、ただ「人生がうまくいかず、自分が刑務所に入りたかった」だけ、「相手がただ狙いやすかった」だけで無関係の人が襲われてしまう。どうしたらそうした事件を防げるのか、治安だけでなく考えなければならないことは多い。
前代未聞の騒擾、こうした時こそ、内外からの影響力工作が効きやすくなる。特に国防、外からの脅威に備えてきた安倍元首相の死によって、よもや日本の情報環境が内外からの悪質な影響を受けることは、なんとしても避けなければならない。
「戦いの場」で倒れた安倍元総理
本書の目次を見ながら、「次にこうした本が出る時には、安倍さんも名を連ねるのか……」と思うと、とてつもない、途方もない気分に襲われる。こんな形で「歴史」に名を連ねるなんて、多くの国民も、もちろんご本人も望んではいなかった。
しかし一方で「政治家は畳の上では死ねない」と言われてきたのも事実だ。
妻の昭恵さんは「選挙の時の主人はすごい。猛烈な勢いで、移動中の車内で200件も300件も『安倍晋三です、誰々さんに一票、お願いします』と電話をかけまくる」と仰っていた。選挙は戦いでもある。安倍元首相はそんな戦いのさなかに、凶弾に倒れたことになる。
こうした「要人暗殺」の視点でとらえる一方で、もう一つ大事なことがある。安倍元首相は要人であるのはもちろんだが、その前に一人の日本人でもあった。その命が奪われたことを、まずは重く受け止めたい。