ボール球でもヒットにした希代の天才バッター、しかし自己評価は「ええかげんやった」 元南海外野手の広瀬叔功さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(4)

64年6月の西鉄戦で広瀬さんは本塁打を放って25試合連続安打とし、当時のパ・リーグ新記録をつくる

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第4回は元南海(現ソフトバンク)外野手の広瀬叔功さん。希代の天才打者は選手としての自身を評して「ええかげんやった」と繰り返した。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽門限破りで屋根から屋根へ

 ノムやん(野村克也さん)と杉やん(杉浦忠さん)とは、よく一緒に出かけた。鶴岡一人監督からいつも「三悪人」って言われてね。門限破りなんて平気。宿舎の鍵を開けるのは得意だった。屋根から屋根へ飛び移ってね。酒を飲んでるから落ちる可能性もあったが、僕はでたらめなことができた。ノムやんと杉やんは下で見て待っている。あの2人はできんから。ねずみ小僧じゃないが、泥棒やったら、ええ泥棒になれた。だから、鶴岡さんから「チョロ」と呼ばれたんやないか。「おまえはチョロチョロしやがって」とね。僕はねずみ年生まれだし。
 

広瀬さんは今年8月で86歳

 ノムやんと杉やんは、みんなの前で怒られたことがほとんどなかった。僕は怒られやすかった。僕を怒っておきゃあええ、ということじゃなかったかな。2人とも僕に比べたら真面目。僕はええかげんだから。「フーテンの広瀬」いうてね。ノムやんが「広瀬は素振りをしただけでスランプから脱した」と驚いたというが、ノムやんはすごく練習する人で、僕は飲んだくれて遊んで適当にやっとるから、そう見えただけ。ただ、ちょっとぐらいは練習した。見せないだけでね。多少は影でやっていた。
 

 ▽投げるのも打つのも我流。でも、みんなよりうまい
 

 高校時代は勉強なんてしたことないし、する気もない。職に就いて飯を食えるような生活を、という考えは一切なかった。何をしても食えるだろうと、そういう性格。とにかく野球を楽しくやって、遊んでという考えだった。野球を強くしてやろうという学校ではないから、ええかげんにしとっても、それで済んだ。広島商とかなら、くびになっていた。プロへ行くなんて思ったことがなかった。ただ、練習していなくても球を放ったり打ったりすると、みんなよりうまい。他校のやつを見て、何やこいつ大したことないなと、そういう感覚は持っていた。

巨人と対戦した1959年の日本シリーズ第4戦で本塁に向かう広瀬さん(中央)。右は鶴岡一人監督。左の背番号3は長嶋茂雄さん

 入団テストも一生懸命に野球をやるために受けたという思いは全然ない。プロに入った時は「こんなんやったら俺、いけるわい」という感じ。圧倒されなかった。走らせたら速いし、球も速かったから。投げるのも打つのも我流や。基本からこうやれと言われたら、全然駄目な人間。教わったことがない。見よう見まね。本当に僕はぼんくらだ。1955年に投手で南海に入団したが、すぐに野手へ転向した。こだわりはなかった。長いイニングを投げるとすぐ肘を痛め、これは投手に向かんなと思った。そういう体質じゃないなと諦めた。諦めるのは早い。下手くそなショートだったが、打つ方は結構やるから中心選手になっていった。
 

 ▽日頃の発想と感覚でつかんだ悪球打ち
 

 61年に小池兼司が入団してきた。家が近所で仲が良かった。あいつが僕の前で泣いたことがあった。僕を追い越すのは大変やと思うたんだろう。守備がうまいのは分かっとる。堅実性があって。だけど僕がショートにいる間、こいつは試合に出ることができない。僕が転向したら小池は遊撃のレギュラーを取れるなと。だから、とこかが痛いとか何とか言って外野へ回った。内野の時の僕は本当にええかげん。頑張ったって下手なんやから。僕には内野のセンスはない。ゴロに対してではなく、フライに対して球に追い付くまでの(外野手としての)運動神経やセンスは自慢じゃないけど割とあったと思う。

64年のパ・リーグ表彰風景。左から2番目が広瀬さん。右端の2人がチームメートの野村克也さんと小池兼司さん

 僕はボール球でもヒットにしたと言われる。来る球はどんな球でも対応しようという考えを、あほやから持っとるんだ。ストライクを打つだけじゃ楽しくない。ボール球でも打ったら楽しい。ほんまに、そう思いません? そんなこと考える必要もないのに、練習でとんでもない球を打った。打てなかったら、なぜかと考える。そうすると試合で頭の中に(イメージが)浮かぶ。常日頃の発想と感覚があれば打てる。いきなりやったって打てんよ。自然と練習で覚えるもんだ。遊び半分でやっていても。あほでもね、積み重ねて考えとったら、ある程度の結果は残せるいうことだ。

 ▽僕ほど野球を楽しんだ人はおらん

 試合の大勢が決まると、僕はすぐホームランばっかり狙った。ヒットを打っても面白くない。ホームランを打つには高めの球の方がええからと、手を出してよう怒られた。打てんのにチャレンジするのが楽しかった。娯楽を感じながら野球をやっていた。選手としては、僕は落第生。もっと打率とか考えて、ストライクゾーンを真面目に打っておけば、もっと良い成績を残せたろうが、数字には興味がなかった。
 フォア・ザ・チームを感じる時はある。チームのムードで勝たないかん時は、むちゃはしない。勝つためには真剣にやった。けれど、点差が開いたり、勝つか負けるかだいたい分かったりした時は遊びに入った。僕ほど野球を楽しんだ人はおらんでしょうね。川上哲治さんの下でやっとったら、すぐベンチやろ。鶴岡さんやからやろな。好き放題やっとったな。

70年7月の西鉄戦で盗塁を決める広瀬さん(右)。通算盗塁数は歴代2位の596まで伸びた

 盗塁なんて好きやなかった。一つも楽しくない。盗塁は最後まで真剣にやらないかんでしょ。こんなしんどい思いして、何でやらないかんかと思ってね。クロスゲームで勝負が決まる時に走って、だんだん楽しく感じ出し、盗塁のすごさが分かってきた頃には脚も衰えていたね。初めからやっていれば、もっといい野球を見せられたと思うが、そんな考えは若い頃はありゃせんから。
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 広瀬 叔功氏(ひろせ・よしのり)広島・大竹高から1955年に南海(現ソフトバンク)に入団。俊足好打のリードオフマンを務め、61年から5年連続盗塁王。64年に首位打者。72年7月に2千安打を達成した。通算2157安打で、596盗塁は歴代2位。78年から南海の監督を3年間務めた。36年8月27日生まれの85歳。広島県出身。

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