「中東=灼熱の砂漠」ではない異文化への偏見を廃す その2

林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・日本人は中東と聞いてただちに砂漠をイメージするが、それが中東の全てではない。

・イスラム原理主義者たちの暴虐ぶりから、誤ったイメージが広まっているが、実際のイスラーム帝国の支配は穏健なものであった。

・「武力に裏打ちされた強権支配より、穏健な文化的支配の方がうまく行く」ということを学ぶべき。

最近はどうか知らないが、我ら昭和の小学生は『月の沙漠』という童謡を幾度となく聴かされたり歌わされたりした。文部省唱歌になっていたのだ。

アラビアの砂漠と聞くと、まずはこの歌を思い浮かべるのは私一人ではあるまい。

ただ、私自身もそうだが、多くの人がタイトルについて「砂漠」ではなく「沙漠」であることに気づかないまま記憶にとどめていたのではあるまいか。

そもそもこの歌は、画家で詩人でもあった加藤まさをが、1923(大正12)年、雑誌『少女倶楽部』に寄稿した挿画付きの詩に、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲をつけたという経緯で生まれている。

加藤本人は後に新聞の取材に対して、アラビアの情景をイメージしたと明言してはいるものの、実は海外旅行の経験などなく、千葉県・御宿の海岸の風景からの連想だけで書き上げたというのが、どうやら真相らしい。つまり、砂浜を意味する「沙」の字もあえて選んだに違いないと広く信じられている。

もうひとつ、日本では1963年に公開された映画『アラビアのロレンス』の影響も無視できないのではあるまいか。少なくとも、私自身にとってはそうであった。

第一次世界大戦中、ドイツ帝国と手を組んで英仏に敵対していたオスマン帝国に対し、英軍はオスマンからの独立を願うアラブ人の反乱を支援した。その工作の責任者にしてアラブ軍団の指揮官に抜擢されたのがトーマス・エドワーソ・ロレンス少尉(後に大佐まで進級)で、実在の人物である。

演じたのはアイルランド出身の名優ピーター・オトゥール。映画公開当初、英国ではロレンスと「瓜二つだ」と評判になった。それもそのはずで、二人は親戚なのだ。

写真)映画「アラビアのロレンス」でロレンス役を演じるピーター・オトゥール 1962年

出典)Photo by Columbia Pictures/Courtesy of Getty Images

その話はさておき、多くの日本人が中東と聞いてただちに砂漠をイメージするのも、あながち偏見だと決めつけるべきではないかも知れない。アラビアのロレンスの英雄譚はいわば序章で、その後も数次にわたる中東戦争や、現在も続くシリアの内戦まで、20世紀を通じて繰り返し戦乱の舞台になったので、報道によって出来上がったイメージもあるだろう。

ただ、当たり前のことを言うようだが、それが中東の全てではない。

日本の外務省が「中東」と定義する範囲には、21の国と地域が含まれ、これにスーダンを加えた総面積は、およそ1400万平方キロメートル。日本の40倍にもなる。ちなみに総人口は5億1000万ほどで、英国が離脱する前のEUと同じくらいだ。

アフガニスタンのカーブル(日本では〈カブール〉と表記されることが多いが、こちらが原音に近いようだ)は東経69度、モロッコのマラケシュは西経8度。東半球と西半球にまたがり、両都市間の距離は7000キロメートルを超す。日本列島も南北に長く、地域によって気候風土の差が大きいが、それでも北海道から沖縄まで3000キロメートルあるかないか、ということを考えてみるとよい。

南北の広がりも然りで、トルコのイスタンブールは北緯41度で津軽半島とほぼ同じ。一方、イエメンのアデンは北緯12度でマニラやバンコクよりもさらに南に位置する。

地形も高低差に富んでいて、地平線まで砂漠が続く風景ばかりではない。アフガニスタンには標高7500メートルに近い山があり、トルコやシリアにも5000メートル級の山岳が存在する。逆に最も標高が低いのは有名な死海で、なんと標高マイナス200メートル以下だ。

砂漠の話題に戻して、中東の気候区分は乾燥帯、温帯、亜熱帯に分かれるが、北アフリカの内陸部とアラビア半島のほとんどは乾燥帯に属する砂漠気候である。昔から、アラビア語で「アル・ラバル・カーリ=空白地域」と呼ばれ、ヨーロッパの人々も「荒涼たるアラビア」などと呼んでいた。一方、同じアラビア半島でもイエメンからオマーン南部にかけては「幸福なアラビア」と呼ばれる。夏にインド洋から季節風が吹き付ける関係で降水量が多く、緑豊かなのである。

さらに言えば、トルコ南部よりイラク北部を経てカスピ海に至る地域は温帯に属する地中海性気候で農耕に適しているし、イラク中部にはチグリス川とユーフラテス川に挟まれた広大な堆積平野が存在し、世界四大文明のひとつであるメソポタミア文明が栄えた。

ただ、四大文明(メソポタミア文明、インダス文明、中華文明、エジプト文明)というのは日本独自の定義であるらしく、ヨーロッパでは単に「文明の黎明期」と呼ばれ、他にいくつかの古代文明が数えられている。

ともあれメソポタミア文明だが、その全盛期を支えたとされるシュメール人については、今もって人種的特徴など、詳しいことが分かっていない。

「彼らは何者で、どこから来て、どこに消えたのか」

肝心なことが皆目分からないのだ。邪馬台国が日本史上のミステリーだとすれば、これは世界史的ミステリーだと言ってよい。

その後、サウジアラビアのメッカにおいて、610年にイスラムが成立する。ムハンマドの教えによれば、神はアラビア語をもって人類に教えを下したのであり、それゆえ啓典とされるクルアーン(=コーラン。クアラーンと表記されることも多い)の翻訳は原則禁止されている。

その頃すでに「キリスト教を信仰する者の運命共同体」としてのヨーロッパが成立しており、以降ヨーロッパの中世史とはイスラムとの戦いの歴史であったと言える。ただ、北方においてはロシア、南方においてはトルコとの境界までがヨーロッパだという定義が浸透するのは、19世紀になってからの話だ。

よく、ヨーロッパの人々はイスラムの布教活動を

「右手にコーラン、左手に剣」

と称して怖れた、と考える人がいるようだが、これは少し、いや、かなり違う。

たしかに初期のイスラム教団には優秀な将軍が多く、ムハンマド自身も優れた軍事的才能の持ち主であった。このため、どこかの諸侯が宗教弾圧を試みた際には、片っ端から返り討ちにした。ここまでは事実である。

イラスト)オスマン帝国による1529年ウィーン包囲

出典)DigitalVision Vectors

その結果、キリスト教がローマにおいて国教の地位を得るまでには400年ほどを要し、数え切れないほどの殉教者を出してきたのに対し、イスラムはほぼ同じ年月の間に、中東・北アフリカ一帯からヨーロッパまで版図を広げた。この歴史を知って感嘆したキリスト教徒が、前述のように形容したので、信仰を受け容れなければ殺すぞ、などという意味はまったく含まれていない。

実際、キリスト教化されたローマは、ギリシャを支配会に入れた後、古代の多神教を否定し、オリンピックまで一時は廃止した。

これに対してイスラムの支配は、税金さえ納めれば信仰の自由も認めるという、誠に穏健なものであった。

こちらもまた、昨今のイスラム原理主義者たちの暴虐ぶりから、誤ったイメージが広まっているのは遺憾なことで、

「武力に裏打ちされた強権支配より、穏健な文化的支配の法がうまく行く」

ということを、現代人は学ぶべきではないだろうか。

次回は、イスラム金融について述べる。

<解説協力>:若林啓史(わかばやし・ひろふみ)

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業、外務省入省。

アラビア語を研修しイラク、ヨルダン、イラン、シリア、オマーンなどの日本大使館で勤務。

2016年より東北大学教授。2020年、京都大学より博士号(地域研究)。『中東近現代史』(知泉書館)など著書多数。

『岩波イスラーム辞典』の共同執筆者でもある。

朝日カルチャーセンター新宿校にて

「外交官経験者が語る中東の暮らしと文化」

「1年でじっくり学ぶ中東近現代史」

を開講中。いずれも途中参加・リモート参加が可能。

(続く、異文化への偏見を廃す その1

トップ写真:ルブアルハリ砂漠で行われるラクダの訓練 サウジアラビア ナジュラーン州 2021年12月31日

出典:Photo by Eric Lafforgue/Art in All of Us/Corbis via Getty Images

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