天皇を「陛下」という呼び方、昔は違っていた?皇室記者が調べた「意外な難問」

「太平記絵巻」に描かれた、後醍醐天皇のもとに参集する殿上人たち(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)。左の御簾の奥にいる天皇の姿は描かれていない。

 「天皇陛下」という呼び方は、私たちの間で定着している。皇后、上皇、上皇后にも「陛下」が使われる一方、それ以外の皇族の敬称は「殿下」だ。これは皇室典範で決められた規定であり、私たち国民の耳にもなじんでいるだろう。本人たちに呼びかける二人称としても「陛下」と「殿下」が使われている。
 一方で、歴史小説やドラマなどでは天皇を「帝」とか「天子さま」とか「お上(おかみ)」などと呼んでいる場面があり、以前から疑問に思っていた。古来、天皇は二人称、あるいは三人称としては何と呼ばれていたのか。日本史の専門家らに尋ねた。(共同通信=大木賢一)

 ▽秀吉は「関白殿下」


 まず、「陛下」という言葉の由来から整理してみる。「陛」は階段のこと。陛下も殿下も、そもそもは「宮殿や御殿の下」という同じ意味であり、近臣が階下でへりくだることから「高貴な人」を尊称する言葉になったと言われている。
 「殿下」という呼び方は、歴史小説や映画、ドラマでなじみがある。豊臣秀吉の例があるからだ。秀吉が朝廷から関白に任ぜられた後、周囲の者に「関白殿下」と呼ばれるのを耳にしたことがある人は多いだろう。「殿下」は古くからあった言葉のように思える。

大宮神社で見つかった等身大の豊臣秀吉坐像=大阪市

 試しに日本大百科全書を引いてみると、殿下は「皇族の敬称に用いられ、平安時代からは摂政・関白の敬称に用いられている」と書かれている。また、時代が下ると将軍のことを殿下と呼ぶこともあったようだ。
 一方で「陛下」はどうか。なんとなく洋風で、明治維新の後に始まったかのような印象もあるが、京都産業大の久禮旦雄准教授(日本法制史)によると、実は陛下も殿下も奈良時代に成立した法律「養老律令」に、既に記述があるという。
 養老律令では「陛下」について「陛下 上表に称する所」と書かれている。久禮氏は「臣下が天皇に何か申し上げる書類で用いる言葉ということです」と解説してくれた。
 陛下はほかの文書にも登場する。「古事記」の序文では、太安万侶が元明天皇(在位707―715年)を「皇帝陛下」と書いているほか、聖武天皇(在位724―749年)が「先帝陛下」と表現されたり、平安時代の文書で醍醐天皇(在位897―930年)が陛下とされたりした例があるという。
 「陛下」の起源は意外に古いことが分かった。ただ、律令の規定では、「陛下」は行政文書上の呼称となっている。久禮氏は「二人称として天皇のことを『陛下』と呼んでいたかどうかは分からない」と話す。

 ▽分からない「天皇への呼びかけ」

2019年5月、即位後初の宮中祭祀となる「期日奉告の儀」に臨まれる天皇陛下。剣と璽(じ)を侍従が携え随行した=皇居・宮中三殿の賢所(宮内庁提供)

 「天皇の二人称は何だったのか」。この素朴な疑問は、意外な難問のようだ。歴史ドラマの時代考証を経験したことのある専門家に聞いて回ったが、軒並み「分からない」という反応だった。それどころか、この疑問に答えるのは「難しい」という。
 その理由を、国際日本文化研究センターの今谷明名誉教授(日本中世史)に説明してもらった。今谷氏は、室町幕府8代将軍足利義政の妻・日野富子の生涯を描いた1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」で時代考証を手がけている。
 「天皇の呼称などということを研究している人は、最近ではまずいないと思うし、そもそも御簾の奥にいる天皇と直接話をできる者は、歴史上極めて限られていた。何と呼びかけていたかは、文書として記録に残ることもなく、分かるのは三人称としての天皇の呼称だけだ」
 ドラマの一場面では、御簾の外にいる近臣がひそひそと天皇に言葉を取り次ぐさまを見かけるが、公的なことで天皇と会話できるのは「蔵人頭(くろうどのとう)」、私的なことでは女官のトップである「勾当内侍(こうとうのないし)」らに限られたという。今谷氏は「二人称としては『お上』『上さま(うえさま)』などと呼ばれた時代が長かったのではないか」と想像している。

 ▽「院さま」「御所さま」「禁裏さま」

 

雄略天皇とみられる「獲加多支鹵大王」の文字が残る稲荷山古墳で出土した鉄剣(埼玉県立さきたま史跡の博物館提供)

 次に、三人称としては天皇は何と呼ばれたのか。埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文には、5世紀後半の雄略天皇を指すとみられる「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の記述がある。天皇は「おおきみ」あるいは「だいおう」と呼ばれていたようだ。

 「国史大事典」によると、「天皇」の称号が成立したのは7世紀とみられ、法隆寺金堂釈迦三尊像の銘に用例があるが、当時は「すめらみこと」と読んでいたとみられる。現在のような「てんのう」という読み方がいつ始まったかは、不明だという。
 今谷氏によると、「天皇」の呼び名は10世紀には一度消え、村上天皇(在位946―967年)以降は「院さま」と称されていたことが、公家の日記から分かる。学校の教科書では「院」は「上皇」や「法皇」を指すと習ったが、天皇を示すこともあったという。
 今谷氏の専門である室町時代になると、天皇は「御所さま」、さらに時代が下って江戸時代には「禁裏さま」と称されることがあった。いずれも「天皇の居場所」が転じて天皇そのものを指す言葉になったとみられる。もっとも「御所さま」は室町将軍を指すことも多かった。

 ▽「天子さま」と「帝」

 幕末物の歴史ドラマでよく耳にする「天子」や「帝」はどうか。これらはいずれも、古代中国で皇帝などを指す言葉として始まった。
 日本の天皇を表す言葉としては隋書倭国伝に「日いずる所の天子」とあるのが有名。「国史大事典」などによると、天子はもともと「天命により天に代わって天下を治める者」の意味があり、日本書紀にも用例があるという。
 また、東京堂出版の「皇室辞典」の記述によると、江戸時代になって民衆が天子に敬語をつけて天子さまと呼ぶようになった。
 

明治天皇の肖像画

 幕末・明治維新期が専門の明治大の落合弘樹教授(日本史学)は「幕末における天皇の呼び方は『帝』『天子』『お上』『禁裏』と多様だったように思います」と解説してくれた。長州の思想家吉田松陰は「天子」を使っていたという。尊皇攘夷思想の高まりで、「本来国を治めるべき人」とのニュアンスから「天子」が好まれたのかも知れない。薩長の倒幕勢力が、幼い明治天皇を「玉(ぎょく)」と呼んでいたことも知られている。

 ▽昭和天皇は戦後も「お上」

 明治時代になると、1889年の旧皇室典範で天皇の敬称が法的に定められた。
 「天皇、太皇太后、皇太后、皇后ノ敬称ハ陛下トス」「皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王ノ敬称ハ殿下トス」
 この基準は、戦後の皇室典範にも受け継がれている。
 それでは、現在の天皇、皇后両陛下は、仕える人々からは何と呼ばれているのか。
 宮内庁侍従職に問い合わせたところ「天皇陛下に対しては侍従も女官も『陛下』とお呼びしている。皇后陛下についても『皇后陛下』が基本だが、女官の中には『皇后さま』とお呼びする者もいる」とのことだった。
 明治以降の近代皇室では、天皇の呼称は「陛下」で統一されていたように思えるが、実はそうでもなかった。昭和天皇は昭和の終わりまで、生涯、側近の一部から「お上(おかみ)」と呼ばれていたことは、あまり知られていないだろう。

皇居・東御苑内を散策される昭和天皇=1988年4月

 2018年に共同通信の報道で存在が明らかになった「小林忍侍従日記」。1974(昭和49)年5月のある日の記述には「午前御散策。(中略)お上が最初『小林、暑ければ上衣をとっていいよ』とおっしゃられた」とある。戦後に至っても侍従が天皇を「お上」と呼び、天皇が侍従を呼び捨てにしていることに驚かされる。
 87(昭和62)年に昭和天皇が体調を崩した際にも「お上御異常。御車寄前植込横(東側)においでの時急にお立ち止り、不審に思っているとふらふらなさり始めたので、高木侍医長と田中侍従が左右からお支えしたところその場におくずれになった」と書かれている。
 映画でも「お上」が使われている。
 イッセー尾形さんが昭和天皇を演じて話題になったアレクサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」(2005年)には、佐野史郎さん演じる侍従長が、米軍の動静を伝えて退避壕への移動を促す場面があり、昭和天皇に向かってはっきり「お上」と呼びかけている。
 この映画では二人称として「お上」が何度も使われているが、脚本を担当したのもロシア人であり、その根拠は不明だ。一方で、現在の天皇陛下に対しても、直接対面する機会を得た一般の人の中には「お上におかせられましては」などと話す人もいまだにいるという。天皇は一体何と呼ばれていたのか―。簡単なようでいて、改めて難しい疑問のようだ。

© 一般社団法人共同通信社