「あの日を忘れない」長崎大水害40年 各地で犠牲者追悼

慰霊祭で手を合わせる参列者=長崎市川平町

 1982年7月の長崎大水害は23日で40年。長崎市を中心に未曽有の豪雨に襲われ、多くの人々の命が濁流にのみ込まれた。近年は風水害が激甚化。毎年のようにどこかで被害が相次ぐ。「あの日を忘れない」「大水害の記憶を伝えることが務め」。市内各地で行われた追悼行事で、遺族や住民らは犠牲者をしのび、防災への誓いを新たにした。

 34人が命を落とした同市川平町では慰霊祭が営まれ住民ら約40人が参列。僧侶の読経の中、慰霊塔に焼香した。84年から主催する同町自治会の尾s﨑恒夫会長(82)は「亡くなった方々を忘れられない。40年前と違い今日はいい天気になった」と犠牲者に思いをはせた。
 参列した草野雄介さん(77)は叔母と叔父、いとこの3人を亡くした。水害の翌日、大勢の遺体が安置されていた同市魚の町の市公会堂(当時)で、顔が痛々しく腫れ上がった叔母を発見したのを、昨日のことのように覚えている。
 「3人は帰宅してすぐに土石流に巻き込まれたと聞いた。ものすごい勢いで逃げ切らんかったのだろう」。慰霊塔をじっと見詰め、時に苦しそうに回想する草野さん。「大水害の記憶を後世に伝えることが生き残った者の務め」と40年の節目を迎えた心境を語った。
 同市界2丁目の日見地区ふれあいセンターでも慰霊式典があり、同地区の犠牲者36人を悼んだ。同地区連合自治会(奥村修計会長)が10年ごとに開催。地域住民ら約80人が参列し、献花した。

献花し犠牲者の冥福を祈る野口さん(手前)=長崎市、日見地区ふれあいセンター

 同連合会副会長の野口清治さん(72)は同市網場町で被災。消防団員として、冠水したり土石流で埋まったりした地域の復旧作業に従事した。野口さんは「40年たって自分の中でも災害が風化しつつある。若い世代に語り継がないといけない」と危機感を口にした。
 同市芒塚町の飲食店「太陽と月の酵素カフェ」では大水害の犠牲者を供養し、防災について学ぶイベントが開かれ、講演やロープを使った防災術の紹介などがあった。主催した森林ボランティア団体「タケノエン」の内藤恵梨代表(34)は「竹林の手入れが防災や減災につながる。どのような行動が防災につながるか学ぶきっかけにしてほしい」と話した。
 市は午前11時、サイレンを鳴らし、田上富久市長はホームページで「長崎大水害を教訓として伝承し、防災意識を高めていくことが大切」と呼びかけた。


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