『鎌倉殿』奈落に落ちた梶原景時「弾劾事件」の真相 義時に渡されたアサシン善児の“使い方”にも注目

源頼朝が死去し、後継に頼家が立ってから約9カ月後の1199年10月25日。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』の同日条に、梶原景時(中村獅童)を奈落の底に突き落とすきっかけとなった1つの事件のことが記されています。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第28回「名刀の主」ではそのことをテーマとしていました。

その日は晴れ。そのような時、下総国結城の結城朝光は、鎌倉の御所控えの間で、他の御家人たちに「夢でお告げがあった。亡くなった頼朝様のために、一万回、南無阿弥陀仏の念仏を唱えよう」と勧めていました。御家人もそれに賛同し念仏を唱え始めます。この時、念仏を唱えるだけだったならば、後の波乱はなかったかもしれませんが、朝光は、ある意味、余計な一言を漏らしてしまいます。

「私は聞いたことがある。忠義な家臣は二人の主君には仕えないということを。私は特に故・頼朝様の御恩を被ってきた。頼朝様が亡くなった時、出家しなかったことを後悔している。今の政局は薄氷を踏むようなものだし」と。

『吾妻鏡』には朝光は、頼朝の「無双の近仕」と記されています。他の御家人もその事をよく理解していたので、朝光の言葉に皆、涙を拭ったとのこと。ところが、その2日後(10月27日)、この日も晴れだったようですが、御所に仕える女房の阿波局が朝光に次のように告げるのです。ちなみに、阿波局というのは、北条政子、北条義時の妹。「鎌倉殿の13人」では、宮澤エマさん演じる実衣のことです。

その阿波局が、朝光に「梶原景時の讒言によって、あなたは頼家様に殺されてしまいますよ。あなたは、忠臣は二君に仕えずなどといって、頼家様のことを馬鹿にしたでしょう。それを聞いた頼家様は、他の者への見せしめのためにあなたを死罪にするよう憤っているのです。このままでは、この危機を乗り切ることができませんよ」と忠告したのでした。それを聞いた朝光はびっくり仰天、悲しみに暮れたと言います。

しかし、ボヤボヤしていたら、いつ魔の手が忍び寄ってくるか分りません。そこで、朝光は、無二の友ともいうべき、三浦義村(山本耕史)の家に行き、相談するのです。朝光の話を聞いた義村は「ことは重大だ。余程の作戦を立てないと、災難に遭おう。景時の讒言によって、命を亡くしたり、職を失った者は多い。彼に恨みを持っている者は今でもいる。世のため、頼家様のためにも、景時を退治するべきだ。しかし、弓矢で挑めば、国に混乱を招く。ここは、宿老と相談するべきだろう」と述べるのでした。

そして、和田義盛や安達盛長らと相談した結果、景時に恨みを持つ御家人たちを糾合し、景時弾劾状を作成、頼家に突きつけるという展開になっていくのです。御家人66名が署名した弾劾状には、北条時政や義時の名前は記されていませんでした。しかし、景時の排斥に北条氏も関与していたという見解が一般的です。

今回の『鎌倉殿の13人』では、景時が暗殺者・善児を義時に譲り渡すシーンが描かれていました。善児と言えば、伊東氏や景時に仕えて、次々に武将たちを葬っていった不気味な「仕事人」。とは言え、身分は下人です。景時に仕えていた頃も、身分は変わっていなかったでしょう。

下人は、農業や家事、軍事でもって主人に奉仕した民であり、売買や相続の対象ともなっていました。ですので、善児が義時に譲り渡されたのも、根拠のないことではなかったのです。思えば、善児も不幸な境遇ではあります。今後、義時が善児をどう使いこなし、誰を殺していくのか?そこも見所の一つになってくるのではないでしょうか。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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