デビュー曲がトップ10入りの快挙!それでも伊藤つかさが忘れられがちな理由とは?  アイドルとシティポップがクロスオーバー! 今こそ注目したい80年代アイドル、伊藤つかさ

オリコン最高5位の快挙。伊藤つかさ「少女人形」でデビュー

伊藤つかさは、再評価される機会の少ない80年代アイドルである。メディアにおける懐かしのアイドルを振り返るような企画でも、一時は爆発的な人気を誇った割には名前が挙がりにくい。

その理由について考察するには、彼女がブレイクするまでの経過を確認する必要がある。幼い頃から「劇団いろは」に属し、子役として様々なテレビドラマなどの出演していた伊藤つかさは、13歳だった1980年に「3年B組金八先生(第2シリーズ)」(TBS系)に生徒役で出演しアイドル的人気を集める。すぐにアイドル雑誌に取り上げられるようになり、年が明けると『明星(現Myojo)』(集英社)表紙に初登場している(1981年4月号)。このとき一緒に表紙を飾ったのが80年代アイドルのトップランナーである田原俊彦と松田聖子であることからも、当時の彼女に対する注目度の高さがうかがい知れる。

そして、14歳になった1981年9月1日に新レーベルのジャパンレコード(のちに徳間音工と合併し徳間ジャパンに)より「少女人形」という楽曲でアイドル歌手としてデビューした。南こうせつが作曲したこの曲は、オリコンのウイークリーチャートで最高位5位を記録。80年代前半の女性アイドルで、デビュー曲のトップ10入りは松田聖子、小泉今日子、中森明菜でも果たしていない快挙である。

デビュー当初の伊藤つかさといえば、労働基準法云々で20時以降に生放送番組に出演しないことも話題になった。結果、彼女がテレビで歌う姿をみかける機会は少なく、それが一時的にはファンの飢餓感を煽るかたちになった。

伊藤つかさにはライバルがいない?

さて、本題に入りたい。伊藤つかさが再評価される機会の少ない、忘れられがちなアイドルである理由とは?

まず、【理由その1】として、伊藤つかさが未成熟であることを大きな特徴としたアイドルだった点を挙げたい。その個性はファンを引きつける部分となったが、音楽作品に対する継続的な評価を得づらくする要素でもあるのではないだろうか。

【理由その2】として考えられるのが、“並列に扱われる存在がいないこと” である。今日、昭和アイドルをデビュー年ごとに紹介するサイトの1981年の欄には、伊藤つかさ、松本伊代、薬師丸ひろ子の名前が並ぶ。それは間違いではないが、年末に近い時期(10月21日)にデビューした松本伊代はメディアでも各音楽賞でも82年の新人として扱われ、同年11月デビューの薬師丸ひろ子は活動面でも人気面でも別格的存在だった。また、同じ年にデビューした他の女性アイドルたちはいずれもメジャーな活躍はできなかった。そのため、「81年組アイドル」というフォルダは存在せず、伊藤つかさだけがポツンと孤立しているのだ。

さらに彼女はグループの出身でもなく、オーディションや事務所つながりのライバルなどもいなかった。強いて挙げれば『3年B組金八先生』に一緒に出ていた川上麻衣子(1981年11月21日デビュー)がいるが、人気は伊藤つかさのほうが断然高く、当時からアイドルとして肩を並べるようなイメージはなかった。

このような背景から、伊藤つかさは誰かとセットで記憶されにくく、結果的に思い出されるきっかけが少ないのである。

82年組の登場でファンが目移り?

そして【理由その3】に、彼女がトップアイドルでいた時間が短かったことが挙げられる。デビュー曲「少女人形」がヒットした翌月に松本伊代が、さらに翌々月に怪物・薬師丸ひろ子がデビュー。年が明けて1982年春になると、小泉今日子、堀ちえみ、三田寛子、石川秀美、早見優、中森明菜、原田知世… その他多くの新人たちが続々と世に出ていった。百花繚乱のアイドル黄金時代に突入することで、ファンが目移りするのは仕方のないことだった。

それまでは3ヶ月に1度のペースが続いた伊藤つかさの『明星』の表紙登場は82年12月号が最後に。オリコンのウイークリーチャートの最高順位はシングルを出すごとに下がっていった。ついには、1982年11月25日発売の「横浜メルヘン」以降、新曲のリリースが1年3ヶ月ほど途切れてしまうのだ。

彼女の歌手活動はそこで終わらず、1994年より新天地のビクターで企画性が高い作品のリリースなどもあったが、アイドルにとって1年以上のブランクがプラスに働くことはなかった。

アルバム「クレッシェンド」、フィーメル・シティポップ名作選で登場

40年近い時間が流れ、そんな伊藤つかさに再評価のチャンスが巡ってきた。ビクター移籍後にリリースした意欲的なオリジナルアルバム『クレッシェンド』のCDが「マスターピース・コレクション~フィーメル・シティポップ名作選」の一つとして再発売されたのだ。

リリース当時は、その点が強く推されたわけでないが、『クレッシェンド』にはシティ・ポップ系ソングライター陣が多く関わっていた。

まず、注目すべきなのは、全曲を井上鑑がアレンジしていることだろう。1981年に寺尾聰のメガヒットアルバム『Reflections』にアレンジャー、キーボード奏者として参加して広く知られる存在となった井上は、大瀧詠一とも繋がりが深い人物だ。また、稲垣潤一、南佳孝、山本達彦、杏里、泰葉、ハイ・ファイ・セットなどにもアレンジャー、プロデューサー、ミュージシャンとして関わった、まさにシティ・ポップ文化のど真ん中にいた人物である。

作曲陣に目をやると、林哲司の名前が際立つ。林もまた、竹内まりや「SEPTEMBER」、松原みき「真夜中のドア~Stay With Me」、杏里「悲しみがとまらない」、杉山清貴&オメガトライブの各楽曲を手掛けた、シティ・ポップを語る上で欠かせないコンポーザーだ。ほかにも、見岳章、上田知華などシティ・ポップの文脈で語られるミュージシャンの名前もある。松尾一彦もオフコースのメンバーなかではシティ・ポップ寄りの人かもしれない。

キーワードは“クレッシェンド”

今、音楽業界が「商機到来!」とばかり、なんでもかんでもシティポップ扱いする傾向はあるが、少なくとも井上鑑と林哲司が関わっている『クレッシェンド』はジャンルの本道に近いものだと主張していいだろう。

タイトルにも注目してほしい。「クレッシェンド」とは、「だんだん強く」といった意味の音楽用語であり、日常生活ではまず用いないが、歌詞ではなぜか高頻度で使われる不思議なワードである。松本隆も松任谷由実も、藤井フミヤもSKY-HIも歌詞の1フレーズとして採用している。

そして、このアルバムには表題曲「クレッシェンド」(作詞:井上鑑)の他に、先行シングル曲「涙のクレッシェンド」という曲も収録。何らかの強い意図すら感じる “クレッシェンド推し” なのだ。ちなみに、「涙のクレッシェンド」の作詞者である秋元康は、翌年には河合その子の「落葉のクレッシェンド」という作品をのこし、AKB48グループ関連でも「純愛のクレッシェンド」ほか、複数の曲で「クレッシェンド」をたびたび引用。その秋元康から多大なる影響を受けているだろう指原莉乃も、自らがプロデュースし、詞も提供するアイドルグループの作品で「クレッシェンド」を使っていた。

ここでは深追いしないが、もし、「“クレッシェンド” というワードは何故、作詞者に好まれるのか?」という問題を検証する際には、伊藤つかさの『クレッシェンド』は重要な資料となるだろう。

今回、再発された『クレッシェンド』を、「シティ・ポップの幻の名盤だ!」「アイドルファンならマストの隠れた傑作アルバムである」と煽るつもりはない。ただ、日本のポピュラー音楽の歴史において、アイドルとシティポップがクロスオーバーした時代があったことを証明する地層の一部が発掘されることは、それなりの意義があるように思えるのである。

カタリベ: ミゾロギ・ダイスケ

アナタにおすすめのコラム 名盤「Private File」松本伊代がどれだけ歌手として素晴らしいか教えてあげたい

▶ 伊藤つかさのコラム一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC