広島が生んだ幻のF1レーサー 故・高橋徹に迫る

40年ほど前、彗星のごとく自動車レーシング界に現れ、わずか5年で散った広島出身の天才ドライバーをみなさんはご存じでしょうか。東広島市西条町生まれの故・高橋徹さんです。当時、乗っていたレーシングカーが3年前に見つかり、この夏、きれいによみがえって広島市内で一般公開されています。

今月15日からヌマジ交通ミュージアムで始まったのは、レーシングドライバー・高橋徹さんの生涯を振り返る企画展示。当時のヘルメットやレーシングスーツのほか、1983年当時のF2のレースカー「マーチ832BMW」のモノコックがよみがえって初公開されています。

公開初日、高橋徹さんの兄・邦雄さんの家族も会場を訪れました。

高橋徹さんの兄 邦雄さん
「家から出たのが今回、初めてのものがほとんどなんですよね。ふつう家に来られる人しか見られないんですけど、こういう場をいただいて、ぼくとしても弟にしても喜んでいると思いますね」

親戚の中で徹さんによく顔が似ているのが、邦雄さんの息子・叶平さんです。

高橋徹さんのおい 叶平さん
「こうして30何年後でもこんな形で残してあるのはすごいですね」

1960年、東広島市で生まれた徹さんは、広島工業在学中にA級ライセンスを取得。高校を中退し、レーサーの世界に飛び込みます。

兄・邦雄さんらの支援でフォーミュラーカーを購入し、80年にはFL550クラスで年間チャンピオンに輝きます。81年からハヤシレーシングに加入し、FJ1600へステップアップ。

ハヤシレーシングの畑川治マネージャーは、当時を振り返ります。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「『宮様』って呼んでいたんですよ。皇室にいてもおかしくない」

畑川は、その速さに驚嘆したといいます。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「ぶっちぎりで、しかも雨だったかな。3位以外、全部1周遅れにしちゃったんですよね。ダントツで速かったです」

さらに82年、F3にステップアップしますが、同じハヤシレーシングのエースドライバーに、のちにF1で活躍する鈴木亜久里もいました。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「その1年に関して言えば、1年の間に腕を上げて亜久里君を追い越すぐらいのそういったスピードを見せましたから。本当、とんとん拍子です」

鈴木亜久里は、90年のF1日本グランプリで3位に入賞するなど、日本を代表するトップドライバー。現在は、国内ナンバー1の観客動員数を誇るスーパーGTでARTAというチームを率いています。

鈴木亜久里さん
「本当にもう天性で走るドライバーだね。自分で感じ取って、それで走らせられるドライバー。ライバルだと思ったけど、彼は俺より才能あるなと思った。たぶん彼が生きていたら、もっともっと早くF1に行けたかもしれないね。日本のレース界にとって、もったいないかなと思う」

高橋徹さんは、その年のF3で2位となり、たった3年間余りでついにトップカテゴリーのF2へと上り詰めます。

当時の実況
「さあ、その高橋徹、最終コーナーにかかります。さあ、アクセルオンだ。高橋逃げ切るか、高橋逃げ切るか、2位に入ればルーキーとしては最高の位置であります。今、高橋徹、2位でフィニッシュ」

83年3月、日本最高峰のF2のデビュー戦で高橋徹さんは2位に。いきなり中嶋悟、星野一義ら当時のトップレーサーと堂々と渡り合ったのです。

高橋徹さん(当時)
「終わってホッとしましたね。前半、かなり気持ちも抑えて。スタートをかなりミスったんですけどね。一生懸命、1レース、1レースがんばっていきたいですね。それだけ」

日本のレース界で長年、トップを争ってきた星野でさえルーキーの活躍に驚きを隠せませんでした。

ホシノインパル 星野一義代表
「いきなり俺の後ろに来ちゃうんだもん。馬鹿野郎って言いたい。彼の時代は目に見えていたんでね。自身も負けていられないと。もっともっとがんばらなくちゃいけないと。けっこうスーパースターになる要素はあったね。記憶にはすごい印象深いドライバーだね」

当時、徹さんにあこがれてレース界に入ってきた若者たちも数多くいました。その1人、スーパーGTのレーシングディレクターを務める服部尚樹。

服部尚樹さん
「あこがれで、夢で、目標の選手でしたね」

還暦を越えた今もスーパーGTで現役で走り続けている和田久も徹さんを慕う1人です。

和田久さん
「高橋徹さんっていうのは、ある種、俺がレーシングドライバーになるきっかけになった方。徹さんの遺志を引き継いで、俺が次の徹さんになろうっていう、そういう夢みたいなものを抱けたというのはありましたね」

和田は、FJチャンピオンに3年間(86年~88年)だけ贈られた高橋徹メモリアルトロフィーを獲得していました。

和田久さん
「今まででもらった賞では一番うれしい賞ですね」

そして、元F1レーサーの片山右京ですら徹さんのヘルメットのデザインを真似したといいます。

チーム右京 片山右京さん
「徹さんが特別なのかっていうのは、それだけものすごい光を放っていた、可能性を見せたことだと思うし。日本中の若い人に本当にその一瞬にかけて、全力を尽くしている姿とか、計算しないでまっすぐ生きるってのが大事だっていうのが、言葉じゃないけど知ってほしいなあという気がしますね」

高橋徹さんの兄 邦雄さん
「5年間でしたけど、楽しい5年間でした。死んでしまったのが一番…」

この年のグラチャンのレース中、高橋徹さんは事故で亡くなりました。享年23。

ことし4月、当時乗っていたF2時代のレースカーが整備を終えて、広島に帰ってきました。

RCC

クロマ 伊藤英彦代表
「何十年経って見つかった状態なので、さびなどもひどかったし。特に高橋さんのイベントではきれいにしておきたいなというのがあったので」

RCC

運転席のモノコックとシャシーは、徹さんが実際に乗っていたときのものです。クラシックカーなどの販売を手掛ける現在の所有者・伊藤さんが、3年前に見つけて購入、将来的には元のF2仕様に戻したいと計画しています。

6月、高橋さんの自宅ではミュージアムの職員が展示物の搬出を行なっていました。

今回、展示のため、初めて外に持ち出されたこのハンドル。事故の激しさを物語る曲がったハンドルは、事故後36年の時を経て、高橋家に戻ってきたものです。

RCC

徹さんが生きた証の数々が、よみがえり続けています。

RCC

高橋徹さんの兄 邦雄さん
「だから今でも弟が生きていて、アメリカに行っていると思っているんですよ。展示もばっちり決まっていて、機会があれば来てもらいたいと思います」

広島が生んだ天才ドライバー・高橋徹さんの展示は、9月4日まで広島市内のヌマジ交通ミュージアムで公開されています。

来月13日には片山右京さんのトークショーも行われますが、こちらは締め切りとなっています。

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