田尾下哲 作・演出 音楽朗読劇「フェルメール・ブルー」インタビュー

昨年、田尾下哲による戯曲集「傑作誕生をめぐる物語三部作―フェルメール、モーツァルト、ベートーヴェン」が出版された。この3人に共通するのは、現代において画家、作曲家として名声を確立している芸術家であること。そして彼らの作品には普遍的な価値が認められているのは周知の通り。この3つの物語はその『価値』の誕生物語であると同時にその『価値』の普遍性を問いかける物語でもある。そしてこの三部作を順番に音楽朗読劇として上演していく。一回目は『フェルメール・ブルー』。17世紀のオランダ絵画黄金時代の画家・フェルメールの作品を贋作した20世紀に生きたオランダの画家ファン・メーヘレンの物語。批評家を欺き、ナチス・ドイツをも欺いた実在の画家でナチスにフェルメール作品を売り渡したとして戦犯裁判にかけられる。贋作であることを自白すれば、永遠の居場所を美術館の壁に定められた自作はゴミ箱へ、贋作であることを隠し通せば、自作は名画の誉を永遠のものとするが、売国奴として死刑は免れない。作品の名誉と自らの命を天秤にかけた画家の生き様を通して絵画の「価値」を問いかける。
ちなみに第二作『革命への行進』はモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』の上演許可をめぐる実在の人物・宮廷検閲官ヘーゲリンを主人公とした物語。第三作の『ベートーヴェン第10交響曲』は、ドイツの作曲家ベートーヴェンの存在しない『第10交響曲』を巡るベートーヴェンと無給の秘書シンドラーの物語。8月2日より開幕の音楽朗読劇「フェルメール・ブルー」について、また戯曲集を執筆した経緯などを大いに語っていただいた。

――「戯曲集 傑作誕生をめぐる物語 三部作~フェルメール、モーツァルト、ベートーヴェン~」、この本のまえがきにもありますけれども。この3つの戯曲を書いてみた動機は?

田尾下:2020年2月末、朗読劇『嵐が丘』公演の最終日が終わった後、オペラ『魔笛』の稽古に行ったらコロナの関連で公演は中止だと伝えられまして。この時点で私の活動はすべて途切れてしまったんですね。自主公演、自分のカンパニーもあったんですがそれも中止。それで時間が空いて、長い時間腰を据えてなにかを書ける時間ができたんです。今までは時間がなくそんなことはなかったんですけれど、これまで書こうと思ってもプロットだけで止まっていたり、リサーチだけ終わって書けていなかった戯曲を書くことに決めたんです。コロナで失った機会の分を上回る成果を残したいと思い、構想していた題材をどんどん書いていこうと。まず『フェルメール・ブルー』に手を付けた次第です。細かいところをいうと、上演されるのが決まっていたのに書いていなかった台本をまず先に書きました。朗読劇用の台本で、『レ・ミゼラブル』の7人版と『オペラ座の怪人』でした。それをやったうえで書き上げたのが『フェルメール・ブルー』。最初に構想していたのは2013年のことでした。それでも当時はコロナがどうなるか、これからの展望が見えずじまいでしたから、だったら書けるだけ書こう、ということで2008年から思い描いていた『モーツァルト』とダ・ポンテの戯曲にも手を付けまして、モーツァルトの大家である海老沢敏先生にも電話でご指導を仰ぎました。僕が描きたかったのはモーツァルトのオペラへの検閲だったんですけれども、先生のお話ではヨーゼフ二世は絶対的にモーツァルトを庇護していたので検閲はなかったのではないか、と。それに、18世紀には検閲の歴史の資料がほとんどない中、インターネットで論文を検索しながら物語を膨らましていきました。さらに、まだ時間があったのでもう一つ『ベートーヴェン』も書こうと(笑)。これはプロットの構想はしてなかったんですけど、僕の中ですごく興味があったもので「もしも、ベートーヴェンの交響曲10番があったらどんなものだったのだろう」と。この3作品を3月から5月の3ヶ月で書きました。それこそ寝食を忘れるほどに没頭して書いていましたから(笑)。

――今回上演される『フェルメール・ブルー』ですが、フェルメールの贋作について興味を持ったきっかけは?

田尾下:戯曲を書くときに指導していただいていた、長屋晃一さんという方がいらっしゃいまして。私より若いんですけれども。長屋さんに「こういうおもしろいのがあるよ」と紹介してもらったのがきっかけですね。でも日本に資料があんまりなかった。一冊だけ、『アイ・ワズ・フェルメール』邦題では『フェルメールになれなかった男』でしょうか。それがすごくおもしろくて参考にはさせていただきましたが、それだけでは足りないので。ドイツとかスイスに住んでいる友人に資料を集めてもらって、しかも翻訳もしてくれたり。そうして集めたものから史実を織り交ぜつつもファンタジーとして描くことにしました。

――これ、実は映画にもなっているんですよね。

田尾下:そうですね。オランダ映画が一つ、2016年くらいですかね。2019年には英語の映画もやっていて。それももちろん観ています。やはり史実に基づく出来事ですから、エピソードとしては人前で評論家の奥さんの絵を描いたりだとか、300年の経年劣化を再現するためにキャンバスをオーブンで焼く実験をしたり。300年の時を作る試行錯誤は演劇的にしたかったので、メーヘレン1人ではなくてテオという相棒に行わせているんです。本来はメーヘレンが1人でやったことらしいですが、彼には「絵」への執念に集中する役割をもたせたかったので。あともう一つ、ブレディウスという批評家、メーヘレンにとって生涯の宿敵となる人物。本当はカーレル・デ・ブルという著名な批評家の妻を寝取ったことがメーヘレンの活動に支障をきたしたのですが、デ・ブルとブレディウスを一つの人格、ブレディウスに統一しました。それでも、ショッキングだったのが2016年の映画がまったく同じ、二人の評論家をブレディウスに統一する解釈をして、被っちゃいました(笑)。演劇的には良くある手法なので、そのまま進めましたが。

――たしかに、あんまり複数のキャラクターがいるとわかりづらくなりますよね。それにしても、主人公のメーヘレンは粘り強いですね。

田尾下:そうですね。絵のテクニックもあったわけですよね。今は鑑定はもっと精度が上がっていますが、当時のドイツの人々にとっては、フェルメールの新しい絵画の発見を待ち焦がれていたんです。これは僕が入れたセリフなんですが、いかにフェルメールであろうとも全部が全部名画と限らない。中には習作もあったり、失敗作があったかもしれませんよね。でも、フェルメールはそれが一切なかった。だから、「なにかあるはずだ」と思われていた人々の心につけ込むというんでしょうか、実際にはお金を作るためだったりとか復讐だったりとかあったかもしれませんが、何にせよメーヘレンは模写ではなくオリジナルの絵でありながらフェルメール作品と鑑定されることに執念を抱いていたんです。偽物と言われないためにはフェルメールが使用していたウルトラマリン、ラピスラズリを使った色ですが、そんな高価なものを使ってまで拘っていたんです。ちなみに、フェルメールは下書きにまでラピスラズリを使用していたんですが、なぜそれを自由に使えたかは未だに分かっていないそうですね。そして、ラピスラズリを使って新作と認められるような作品を描く、と。そのためには主題を見つけなくてはいけない。それにカラヴァッジオから取ったものを使うというのが個人的には腑に落ちない部分ですが、それは史実の部分なので。そこは崩さないようにしました。

――今回の戯曲集は、一つの主題としては「本当に価値のあるものとはいったい何か」という、問題提起のようなものにも見えます。

田尾下:まさしくそれは、常に自分が考えてきたことでもあるのですが、オペラを作るときにもまず、西洋人と日本人は違うということを念頭に置きます。同じことをやっても「目が青くない」とか言われてきましたからね。そこへの鬱憤はもちろんある。仕事をするという意味では、その内容で評価されるべきなのに、外見、人種で厳しい目を向けられるということへの悔しさがすごくありました。フェルメールでいえば、19世紀末まで彼は忘れられた存在だったんですよね。それはなぜだろうと考えたとき、ブルーの色が実際に描いたときと200年、300年後では変わってしまったと。例えば棟方志功さんの木版画や切り絵も今、色が落ちてしまっていますよね。本来はもっと鮮やかだったと思うんです。とはいえ、それが経年劣化ということではなく、時を経て価値を持つようになる場合もある。それがフェルメール・ブルーには起きたのかもしれない。メーヘレンへの評価で言えば、写真という技術が誕生したがゆえに写実的な絵に対する評価が変わった影響もあると思います。実際に巨匠と言われる人でも生きている間に評価されなかった場合がありますが、それは何だったんだろうかと。オペラも私たちがやっていて問われるのは、シェイクスピアのような昔の題材をやっていたときに、当時はセンセーショナルだったかもしれないけど今だと冗長だよね、とか説明がまったくないじゃないか、みたいなこと…簡単に言われてしまいますが、当時としてはそれが当たり前だったんです。一方で、表現者である自分としてはまず物事の本質を考えなくちゃいけない。いわゆる名画であったら巨匠の作品だからすごいんだろう、と安易な動機ではいけない。美術の授業で「ひまわりを描いてください」といえば花の絵ばかりです。ひまわりなんて一年の内、花が咲いていない時期の方が多いし、それに、いくつか実際の絵を並べて絵画の価値を問うと、多くはゴッホのひまわりを名作だと考えています。でも、なにもゴッホのような力強さを入れなくてもいい。写実的なひまわりの方が本物のひまわりに近いのに、大半がゴッホのひまわりを評価する。でも、客観的に見るとあれは「ゴッホのひまわり」なんです。ゴツゴツしているし、本物のひまわりという解釈ではない。それでも、「ゴッホのひまわり」が評価されるのは果たして何故だろうか、と思うわけです。究極的に言うとデュシャンの「泉」とかケージの「4分33秒」もね、何故評価されているんだろうと常々思っていた疑問なんですよね。これは生涯追い求めるテーマなのではないかと。「評価」とは何なのか。あとは、その評価をアーティストが気にするかどうか、物語のテーマとしては有名な人の陰に隠れてしまった才能。それはメーヘレンであったりとか、シンドラーであったりとか、ヘーゲリンとか。歴史的には残っていない中で彼らがどれだけ苦悶したか、ということを描きたいと思いました。

――当たり前に刷り込まれた評価が、本当にそうなのかというところで今回のメーヘレンの話も、物語の中では敵役になっている評論家のブレディウスが、あくまでも彼の絵を認めないというのは、それは評論家としての固定観念なのかなとも思いますよね。

田尾下:(固定化された評価については)僕の中ではハイライトではあるんですけれど。実は作品の中ではピックアップはしていなかったりします。僕が言わせたものは「オランダ絵画の黄金時代は17世紀だというけど、お前が最高傑作だと言った絵は20世紀、10年前に俺が描いたものだ。黄金時代は現在なんじゃないか」というもの。結局昔に描いたから偉いとか偉くないではなく、今描かれた「エマオの食卓」をブレディウスがフェルメールの最高傑作と言った、というところですよね。やっぱり「昔がよかった」って誰しも言いたいんですよね。野球で言うところの「金田正一選手は170km投げていた」とか(笑)。絶対そんなわけないんですよ。時が経つと球速が10kmずつ増えていくしね(笑)。もっと言うと陸上競技で60年前の記録は全部破られていますから。すなわち今の方が技術も発達しているんです。でも「昔はよかった」というファンタジーを、具体的な数字で比較出来ない場合は真顔で信じている。やっぱりそういう人たちと出会ってきて、自分はこうはなりたくないな、とずっと思ってきました(笑)。

――誰でもそういう気持ちを持ちうることはありますが。

田尾下:とはいえ、こと芸術に関してはそういうことは言いたくないんですよね。やっぱり。昔のフェルメール、300年前のものには現代人は追いつけない、と言われてしまったら、確かに今みたいな感じで「違いますよ」とはいえない。マリア・カラスの方が素晴らしかった、ニジンスキーの方が素晴らしかったと言うのは簡単ですけれども、21世紀の人はいったい何をやれるんだろうって。常に表現者としては通る道ですよね。ここは。

――芸術には明確な基準がないですしね。本当に見た人の主観で決められるものですよね。

田尾下:それでいいのだとも思いますけどね。でも、昔に対する憧憬があってもいいけれどもそれを利用して現代の人を貶める手段に使うのは違うと感じます。あとは、評論家だったら今までは価値観を認められていなかったけれど、これはすごいということをきちんと説明できる、そういう専門的な視点で新しいアーティストを発見できることこそやるべきなんじゃないかと。

――ちなみに、今回の音楽朗読劇、音楽の方はいかがでしょうか。

田尾下:この17世紀と20世紀のオランダ絵画をモチーフにした物語ですから、クラシックがベースになりながらも、20世紀の雰囲気も出してほしいと打ち合わせしましたね。

――出演される方は、ベテランから若手まで幅広いですね。

田尾下:そうですね。諏訪部順一さんは以前からぜひに、とおっしゃっていただけたので実現しました。表現力も読解力も、本当に尊敬する人です。楽しみですよね、声優さんにしろ俳優さんにしろ朗読劇は「どう解釈するか」が勝負だと思います。だからこそ自分たちの、表現者としての、プライドをぶつけてほしいなと思いますね。また、一般公開はしないのですが、洗足学園音楽大学のアニソン声優学科の方たちとも一緒に勉強したりもしていますし。私は桜美林では教科書にも使っているので、読んでもらって意見や感想のレポートを書かせたりしているんですけれど。少なからず「声優になりたい」「役者になりたい」という人たちといるから余計そうなんですけれど、それぞれ、自分と照らし合わせて表現しているようですね。主にメーヘレンで、ブレディウスに感情移入する人はなかなかいないですが(笑)。評価とはどうなのだろうか、と考えるきっかけになればいいなと思います。人種、信仰とかセクシャリティとか、政治的な見方とか評価そのものにはいろいろあります。それは意識してもしなくても入ってくるものなんですけど。考える一助になればと書いたところがあります。

――登場人物では、ブレディウスに関してはある意味彼なりの正義があったような。妻を盗られたという私情もありつつ……。

田尾下:彼は彼で信念を持っていますからね。フェルメールは残された作品が非常に少ないのですが、『マルタとマリアの家のキリスト』を発見したのはブレディウスの功績です。そこは彼にとってもプライドをもっての上での表現であるんですよね。

――対比するメーヘレンは、言い方を変えると独特のしつこさがあるという。そういう人って実際にいそうですけどね。

田尾下:そうですね。僕もしつこい人だと思って書いています。そんな彼が裁判にかけられたとき「自分が書いた」と言ってしまうと美術館から即座に剥がされる。黙ったまま刑を受ければ死刑は免れない。その葛藤がテーマの一つですよね。作品と自分の命、どちらを残すか。史実では自分が書いた、と告白するも刑期の中で亡くなってしまうわけですよね。結果としては、作品も残らず命も残らなかった。それも象徴的な出来事のように思います。とはいえ、彼独自のしつこさがあったからこそ300年の時を作る、という挑戦ができたと思いますが。その彼が「エマオの食卓」にはフェルメールの署名を入れていないんですよね。そのうえでブレディウスに「これはフェルメールの作品」と判断させるのか、と。これが史実だというのはすごい根性だなと思います。しかもそれが成功していますからね。でも今思うと、署名をしてないのに勝手にフェルメールの作品にされて。自分からフェルメールの偽物を描きましたって言っていないんですよ。それで贋作の罪に問われるってどうなんでしょう(笑)。今でもテレビで、本物か偽物かと、ものの格付けみたいな番組やっていますよね。ということは、それが求められていると思うし、本物か偽物か、一点ものか一点ものじゃないかで人の気持ちって変わるんだなって。だからフィルムにコピーして広がっていく映像と、一期一会になる舞台との違いって何だろうと思うことも。ライブエンタテインメントに関わってきたものとしては、一期一会というんでしょうか、失敗とかブレとかも含めて、そこに価値を見いだせるんじゃないかな、っていうことは常に考えてきました。それは『フェルメール・ブルー』にも共通していて、フェルメールを崇め奉るメーヘレンのいらだち。という形を借りて自分の気持ちを描きました(笑)。

――それでは、最後にメッセージを。

田尾下:フェルメールという画家についてはみなさんご存知だと思うんですが、それでは『フェルメール・ブルー』というタイトルでどんな劇になるんだろうという方もいると思います。もちろん、推しの俳優さん、声優さんがきっかけで観に来る人もいるでしょう。やはりこの作品、『フェルメール・ブルー』を観てほしいという気持ちの中には、今、私たちが展覧会で見るあのフェルメール独特の「青」というものが実は描かれた時代には違っていたんじゃないか、と考えるきっかけになったらいいなと思っています。もちろんメーヘレンが主役であることはポイントですけれども…あとは出演者のみなさんが表現者として、一線で活躍している方々がどういう思いで表現しているかという凄みを感じてほしいなと思います。

――ありがとうございました。公演を楽しみにしています。

戯曲集「傑作誕生をめぐる物語三部作―フェルメール、モーツァルト、ベートーヴェン」
創成社公式HP:https://www.books-sosei.com/book/60059.html

公演概要
2022年8月2日(火)〜7日(日) TOKYO FMホール
作・演出:田尾下哲
演出:保科由里子
音楽:茂野雅道
産学連携作品
公式HP:https://vermeer.rodokugeki.jp
取材:高浩美
構成協力:佐藤たかし

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