サッカー代表監督、芥川賞作家、俳優らが語る「原爆と平和」 「悲しみ超え、託された平和、未来へつなぐ」

インタビュー中に目を潤ませる、サッカー日本代表監督の森保一さん=6月、東京都文京区のJFAハウス

 ロシアのウクライナ侵攻で世界は核の脅威に直面している。広島と長崎への原爆投下から77年の夏。サッカーワールドカップ(W杯)カタール大会を控えた日本代表監督や被爆3世の芥川賞作家、映画監督ら平和を希求する5人に思いを聞いた。(共同通信社=調星太、小作真世、今村未生)

 ▽サッカー日本代表監督の森保一さん(53)

「11月W杯開幕、人は互いに尊重を」

インタビューに答える、サッカー日本代表監督の森保一さん

 長崎と広島は世界で二つしかない戦争被爆地だ。そこで人生の長い時間を過ごし、平和について考えてきた。好きなサッカーができ、幸せで豊かな生活をさせてもらえるのも、平和があるからこそだと思っている。
 長崎で育った父は原爆投下当時3歳だったが、爆風で家の窓ガラスが割れたことを覚えている。すごく大きな衝撃を植え付けられたんだなと感じた。母方の祖父は広島に行っており、原爆投下直後に市内で復旧作業にも従事したと聞いている。
 Jリーグのサンフレッチェ広島の監督時代、ホームでの試合前には平和公園に行き「平和な世界が一日でも早く来るように」と願いを込め、犠牲者の方々にお祈りをしていた。原爆の日に近い日程で試合があるときは選手らに、二度と起こしてはいけない悲しい歴史で、今も苦しむ方が多くいることなど、私の知る限りのことを伝えてきた。
 一瞬で生活が破壊された長崎、広島もきれいな街がつくられた。今の私たちの幸せな生活は、多くの方が悲しみ、苦しみを乗り越え、歯を食いしばって未来につなげてくれたおかげだと話している。私自身も未来にバトンタッチしていきたい。
 この世から核兵器が廃絶されれば一番良いが、(核抑止など)考え方はいろいろある。人と人が武力で争い、尊い命が失われることがないような世の中になり、永久に続いてくれるとうれしい。
 ロシアのウクライナ侵攻は本当に悲しい。本来普通の生活を全うできたはずの人たちが、戦争で尊い命を失っている。戦災者の方々の心の傷が少しでも癒えて穏やかに暮らせる日が来てほしい。
 戦争とスポーツは「戦い」という言葉から同じようなものと捉える向きもあるが、全く違う。サッカーは人を傷つける競い合いではなく、ルールの中でクオリティーを競い、感動を与えるもの。戦争に感動する人はいないと思う。11月開幕のW杯カタール大会では世界の人が平和を感じ、人は無秩序で戦うのではなく互いに尊重し合うべきだと感じてほしい。
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 もりやす・はじめ 1968年静岡県生まれ。高校時代まで長崎市で育ち、Jリーグ広島に選手や監督として長年在籍。現在は日本代表監督を務める。

 ▽芥川賞作家の小山田浩子さん(38)

インタビューに答える、被爆3世で芥川賞作家の小山田浩子さん=6月、広島市

「ヒロシマで感じる違和感」
 広島県で生まれ育ち、別の場所で暮らしたことがない。広島の人は子どもの頃から平和教育を受け、折り鶴を折って被爆証言を聞き、平和への思いがあるはずなのに、行動につながっていないと感じる。最たるものが投票率の低さだろう。日々の生活と戦争や政治は全部つながっているのに。
 ロシアによるウクライナ侵攻で、為政者のチョイスが戦争に直結するということを今までになくみんなが感じている。私が学校で教わりたかったのは、そういうことだ。私たちは原爆や戦争を自然災害かのように習い、原因や今の社会とのつながりについて考えることを学ばなかったのではないか。
 広島は来年の先進7カ国首脳会議(G7サミット)開催地だが、被爆都市であることが観光資源のように利用されていると感じることがある。海外の為政者がヒロシマに触れることに価値はある。だが日本政府が核兵器廃絶を見据えた行動をしているようには見えず、ダブルスタンダードだ。
 以前出演したテレビ番組で、被爆者が若者に「平和活動ができないことに負い目を感じないで。岐路に立ったときに戦争や原爆のことを考えた選択をすれば、平和につながる」と伝えていたのが頭に残っている。活動に力を注げなくても、日常の中で気に留めたり、考えたりできるはず。考えることをやめるのは平和から一番遠いと思う。
 まだ原爆を題材にした小説を書いたことはない。入市被爆した祖母の話を書こうと何度か試みたが、うまくいかない。「原爆のことを書いて」と言ってくれた被爆者が昨年亡くなり、「頼まれたのに見せられなかった」と申し訳なくなった。
 祖母も高齢になり、全力で書くべきなのかもしれないが、義務感でやるのは違う。書くのは楽しいことだから、被爆体験を小説にすることを楽しんでいいのかという葛藤もある。自然に書けるときが来ると思っている。
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 おやまだ・ひろこ 1983年生まれ。2010年に「工場」でデビュー。14年に「穴」で芥川賞受賞。被爆3世。

 ▽映画「長崎の郵便配達」に出演した俳優イザベル・タウンゼンドさん(61)

オンラインで取材に応じる、俳優のイザベル・タウンゼンドさん

「戦争のおぞましさ伝えたい」
 長崎の被爆者、故・谷口稜曄さんの半生をつづった著書がある父の故ピーター・タウンゼンドの足跡をたどるため、2018年に初めて現地を訪れた。ドキュメンタリー映画「長崎の郵便配達」の撮影だった。街では穏やかな雰囲気や、人の朗らかさを感じたと同時に、77年前の原爆の爪痕が残り、癒えていないようにも思えた。
 父は元英空軍パイロット。英王女との悲恋が映画「ローマの休日」のモチーフになったと言われている。戦争中のパイロットは軍人とはいえ、人を殺し、精神的に強いダメージを受けた。父は退官後に作家となり、戦争で犠牲となった子どもらをテーマに本を書いた。理由なく奪われる命を目の当たりにし、耐えられなかったと思う。
 作品の一つが、16歳の時に郵便配達中に被爆し、核兵器廃絶運動の象徴的存在だった谷口さんを描いたノンフィクション小説「THE POSTMAN OF NAGASAKI(邦題・ナガサキの郵便配達)」だ。
 作中、谷口さんの背中のやけどを目にして泣く子どもたちに、自らの被爆体験を話すシーンがある。被爆への偏見もあり体験をなかなか口にできないことも、今もまだあるだろう。私には想像もできない苦痛が被爆者にも、その家族にもある。
 父も私も、作品を通して戦争のおぞましさを伝えたいという思いは同じ。小説には、次世代の全ての子どもたちに向けて、生命を奪うのではなく、守ろうというメッセージがある。その思いを、映画を通じて伝達することが私たちの使命。平和のため国境を超えて手を取り合うことが大切だ。
 現在、世界には核保有国が複数存在している。一国でも核を保有し、使用の危機がある状況はあってはならない。核廃絶の道のりは、終わりのないような果てしない闘いだろう。それでも、核兵器禁止条約の締約国を全世界に広げるよう、諦めてはいけない。
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 ISABELLE・TOWNSEND 1961年フランス生まれ。モデルとして活動後、映画「バートン・フィンク」でデビュー。

 ▽被爆体験漫画を無料公開している、さすらいのカナブンさん

さすらいのカナブンさんの作品「原爆と戦った軍医の話」より

「戦時の記憶、共有したい」
 広島県三次市で生まれ育ち、小学校の平和学習で被爆者から話を聞く宿題が出た。それを知った祖母(94)が「わしも原爆に遭っとるんで」と体験を語り始め、初めて被爆者だと知った。毎晩のように祖母の腰をマッサージしながら、30分から1時間ずつ話を聞いた。
 祖母は小学校卒業後、広島電鉄家政女学校に入学した。男性の出征による人手不足を補うため、女性に路面電車の業務を手伝わせようと設立された学校で、在学中に車掌や運転を担った。原爆が投下された1945年8月6日は、爆心地から2キロ余りの場所を運転していた。17歳だった。
 男女の区別がつかない姿の人が、たくさん逃げてきたこと、友達を火葬したこと、被爆3日後から電車の運転をしたこと…。祖母の体験を授業で発表したが、その場限りで終わってしまった。
 「聞かせてくれた話が消えてしまう、祖母の記憶を多くの人と共有したい」と焦った。漫画なら目を引くかもしれないと考えたが、原爆も戦争も経験しておらず、当時のことが分からない。図書館で資料を集め、準備に10年以上費やした。

さすらいのカナブンさんの作品「原爆に遭った少女の話」より

 会社員になっていた2012年、漫画「原爆に遭った少女の話」をインターネットで発表した。しかし「原爆を伝えるには足りない」と思うようになり、祖母のいとこや被爆医師、原爆孤児の体験と描き続けた。それら4作はネットで無料公開している。ネットに上げておけば、何かのきっかけで目にし、被爆者の思いを知ってもらえる。
 ロシアのウクライナ侵攻で、核兵器の使用が現実の恐怖となった。被爆者は「二度と使われてはならない」と強く願い、廃絶を訴え続けているのに。今こそ、過去の戦争を知り、被爆者と思いを共にしてほしい。これからの世代には二度と戦争を起こさないよう「賢く」なってほしい。
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 さすらいのかなぶん 広島市在住の40代会社員。初の書籍版漫画「あの日、ヒロシマで~被爆後のヒロシマを生きた少女と軍医の話」が7月1日に発売された。無料公開している作品には、さすらいのカナブンさんのホームページ(http://sasurai.o.oo7.jp)からアクセスできる。

 ▽映画監督の森ガキ侑大さん(39)

「今こそ世界平和を撮りたい」

インタビューに答える、被爆3世で映画監督の森ガキ侑大さん=6月、東京都世田谷区

 広島で原爆に遭った祖父母から生前、戦争体験を聞いて育った。祖母は学校帰りの私たち孫におやつを食べさせながら、決まって「戦争の時はね」と話し始めた。祖父は特攻隊員で、訓練中に終戦を迎えた。もし出撃していたら、父親も自分も、自分の子どもも存在しない。
 周りの同級生も「生き残った者たちの孫」。戦争体験が身近で、恐ろしさを知っていた。戦争のニュースを聞けば、おびえた。神社へお参りに行く度に「世界が平和になりますように」と祈る習慣は、今も変わらない。
 大学卒業後、映像業界で生きていくと決め、広島から離れた。福岡や東京で必死に仕事をしながら、いつか地元に恩返しをしたいと思っていた。ここ数年は広島でもドラマの仕事などに取り組んでいる。だが、まだ戦争や原爆をテーマにした仕事はできていない。
 祖父母から受け取った戦争体験を後世に伝えるのが、自分の義務だと思っている。原爆をテーマにした作品はタブー視されていると感じるし、戦争をフェアに描くのは難しい。いかにして伝えられるか常々考えてきた。
 ロシアがウクライナに侵攻した。日本も核兵器を持つべきだという発想がある程度広がっていると思う。戦争体験を聞かされてきた私ですら、憲法9条を変えれば自分たちは守られるのではないかという錯覚に陥り、危険なことだと感じた。なぜ憲法は大切なのか改めて勉強し、考え直した。
 実際に作品を作るのは先になると思っていたが、今こそ動かなければと脚本家と書き始め、資金集めに奔走している。テーマは「世界平和は無理だと思うけど諦めない」。平和をつくるのは難しいが、誰もが諦めてしまうとゼロになる。子どもみたいに単純な考えだけど、身近な人への愛の連鎖が平和を生むという切り口に挑戦したい。
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 もりがき・ゆきひろ 1983年生まれ。東京都在住。2017年に「おじいちゃん、死んじゃったって。」で長編映画デビュー。CMやテレビドラマも手がける。被爆3世。

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