原爆の日、学徒動員を休み生き残った。後ろめたさから「自分だけ幸せになっていいのか」と苦悶し続けた 学友300人を失った被爆者が、80歳を過ぎて体験を語り始めた理由

被爆体験の証言活動をする篠田恵さん=7月、広島市

 1945年8月6日、米軍が広島に原子爆弾を投下した。その年の末までに推計14万人が命を落とし、生き延びた被爆者も「生き残った後ろめたさ」を抱えている。
 広島市の篠田恵さん(90)も生き残り、ずっと自分を責め続けた。「両親も家も失っていない無傷の私が被爆者とは言えない。自分だけ幸せになっていいのか」。そんな篠田さんが本格的に被爆体験を語り出したのは、80歳を過ぎてから。話せば今も涙があふれる体験を、なぜ語り始めたのか。(共同通信・小作真世)

 ▽遅刻は「非国民」

 77年前のその日、13歳だった篠田さんは、学徒動員で空襲に備えて家屋を壊す「建物疎開」作業のため、朝から広島市中心部に出かけるはずだった。通っていた広島女子商業学校では授業がなくなり、連日、空腹のまま建物疎開の肉体労働に駆り出され、体力は限界。だから朝、どうしても起きられなかった。「遅刻は『非国民』と怒られる」と思い、作業に行くのをやめて家にいた。
 「ぶわーっ」。突然、爆心地から2・8キロ離れた自宅を炎が襲った。障子がメラメラと燃え上がり、慌てて水をくみに炊事場へ駆け出すと、足元の畳が落ちた。「ガラガラガッチャンガッチャン」。爆風が戸や障子を吹き飛ばし、屋根には穴が開いた。篠田さんは畳ごと床に落ちたまま身をかがめ、静まるのを待った。母と弟はやけどを負った。

 ▽生きながらの地獄

1945年8月、被爆直後の広島市街地。焼け残った広島県産業奨励館(中央)は後に原爆ドームと呼ばれるようになった

 無傷だった篠田さんは翌日、17歳の姉を捜しに父と爆心地近くへ入った。姉が勤めていた信用金庫の建物は跡形もなく、残っていたのは金庫だけ。本店の建物をのぞくと、カウンターの上にも床にも負傷者が横たわり、足の踏み場もない。人の気配を感じた負傷者が「お母さん、お母さん」「水ちょうだい」とうめいていた。姉を捜し出さなくてはならないのに、「生きながらの地獄」に足がすくんだ。

 焼け野原を歩いていると、自分を呼ぶ声がした。顔が腫れ、変わり果てた姿の級友が、大八車に乗せられていた。気の毒で言葉が出ない。「作業に行っていたら自分もこうなったか、焼け死んだか」。後になって、同じ商業学校の生徒300人以上が被爆死したことを知った。彼女たちが描いた将来の夢や希望も、一瞬でなくなった。

 ▽「自分だけ幸せになっていいのか」

 篠田さん一家は姉の帰りを待ち続けた。しばらくすると、無事だった姉の同僚が「金庫の中から出てきた」と白い封筒を持ってきた。表には「幸代 遺品」と書かれ、中には爪と毛髪が入っていた。仏壇に置いて大事にしていたが、1945年9月の枕崎台風が被爆地を襲い、自宅も浸水被害に遭って封筒ごとなくなってしまった。

被爆体験を証言する篠田恵さん=7月、広島市

 弟のやけどは8月中に治り、空を飛ぶ飛行機に向かって「姉ちゃんを返せ」と叫ぶようになった。だが、元気な姿を見せていたのもつかの間、下痢が続いて食欲がなくなり、栄養失調に。手に入る食糧は芋やかぼちゃだけ。みるみるうちにやせ細り、10月に息を引き取った。戦時中に生まれた弟は、家族写真にも写っていない。

 篠田さんの父は米国暮らしが長かった。太平洋戦争が始まると、父は家族に「絶対に負ける。大国を相手に資源のない島国がどうして勝てるのか」と話し、母には「子どもを無理に作業へ行かせなくていい」と伝えていた。軍服などをつくる「被服支廠(ししょう)」に勤めていた父は戦後に職を失い、一家は貧困に苦しんだ。篠田さんも放射線の影響とみられる皮膚病を患い、学校を辞めた。

篠田さんの父が勤めた場所の一部は、今も被爆建物「旧陸軍被服支廠」として広島市に残る=2019年12月

 篠田さんは20代半ばで被爆者健康手帳を取得した。しかし「どうして生きているのかと言われてしまう」と思い、被爆体験を語ることはおろか、被爆者と知られることさえ嫌だった。「生き残って良かったなんて思えない。自分だけ幸せになっていいのか」と思い続けてきた。

 ▽生かされた命、一歩踏み出す

 転機となったのは、高校時代の恩師沼田鈴子さんとの再会だった。沼田さんは、篠田さんが通った安田女子高の元教師。被爆して片足を失った沼田さんは被爆体験の語り部になり、「憎しみから平和は生まれない」と国内外で訴えていた。篠田さんは感銘を受け、証言活動を手伝うように。「私の後を継いでほしい。あなたが見たことを話せばいい」。沼田さんは篠田さんに思いを託し、2011年に87歳でこの世を去った。

篠田さんの恩師で、被爆体験の語り部だった沼田鈴子さん=2005年、広島市

 78歳の時、篠田さんはがんを患い手術をした。「生かしてもらっているんだから、語り継がなきゃいけん」。平和活動に熱心な孫娘の気持ちに応えたい気持ちもあった。「沼田先生に背中を押され、孫に引っ張られ」、一歩を踏み出した。85歳で広島市から「被爆体験証言者」の委嘱を受けた。

 ▽いまだに戦争は終わっていない

 篠田さんは今、自ら命を絶つ若者が多くいることに心を痛めている。「お父さんとお母さんのずっと先をたどれば数え切れないほどの命がある。その中の1人が欠けても君はいないんよ。大事な命なんよ」「自殺する勇気があったら、どうしてお父さんでもお母さんでも先生にでも抱きついていかんの」。子どもたちに「命は地球より重い」と伝えることも、自らの役目だと感じている。

被爆体験の証言活動をする篠田恵さん=7月、広島市

 ただ、証言をするたびに、姉や弟、友人を思い出し、涙があふれる。「黒焦げの遺体の中に姉さんがいたのでは」との思いは拭えず、今も遺骨を捜し続けている。「いまだに戦争は終わっていない」。77年間、変わらぬ苦しみを抱えながら、力の限り声を振り絞る。

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