よみがえる国葬に専門家が警鐘、戦前・戦中は「危険な装置だった」 銃弾に倒れた安倍元首相、どう弔うべきか

葬儀場内一般献花台に献花する若者たち=1967年10月31日、日本武道館

 政府は、街頭演説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の国葬を9月に営むと決めた。野党から疑問や反対の声が上がる中、国会での議論を経ずに決まった「国民的行事」。戦時中に戦意高揚に利用されることもあった国葬は、戦後、根拠法令の失効とともに国民葬や内閣・自民党合同葬へと形を変えてきた。なぜ、今になって国葬をよみがえらせるのか。歴史的経緯に詳しい専門家は「内閣の思いつきで実施できてしまう状態は極めて危険だ」と警鐘を鳴らす。(共同通信=井上詞子、水谷茜)

 ▽戦後初だった吉田茂氏の国葬、当時の新聞は…

安倍元首相のひつぎを乗せた車に手を合わせる岸田首相(前列右から2人目)ら=7月12日、首相官邸

 事件から6日後の7月14日、岸田文雄首相は「民主主義を断固として守り抜く決意を示す」と強調し、安倍氏の国葬を催す考えを表明した。戦前に国葬について定めた国葬令(1926年公布)は戦後、政教分離を定めた現行憲法の制定に伴い失効。現在は対象者などを規定する法令はない。だが、政府は内閣府が「国の儀式」を行うとする内閣府設置法に基づき、全額国費負担での国葬実施を閣議決定した。

安倍元首相の葬儀会場に設けられた献花台に花を手向ける人たち=12日、東京・芝公園の増上寺

 戦後に国葬が実施された首相経験者は吉田茂元首相のみで、安倍氏は2例目になる。1967年10月20日に吉田氏が死去した際、当時の佐藤栄作内閣は3日後の23日に国葬を閣議決定。たった11日後の31日に東京千代田区の日本武道館で催された。
 当日の様子はどうだったか。当時の新聞をめくってみると、官房長官が「国民が協力してくれるよう願っている」と記者会見で語り、国家公務員や公立学校は半休、一般家庭にも弔旗の掲揚や黙とうが要望された。テレビ局は、国葬を中継するだけでなく、同日の歌謡やクイズなどの通常の番組放送を自粛した。

1967年10月、東京・日本武道館で行われた吉田茂元首相の国葬

 式には皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)をはじめ、各国の特使らも含めて6千人前後が参列。遺骨を載せた葬列の道を7万人あまりの人が埋めたという。駅のホームのスピーカーや街頭のサイレンが午後2時に黙とうを呼びかけた際には応じる人もいれば、無関心に歩き過ぎる人もいた。

 ▽国葬から国民葬、そして合同葬へ

 当時の新聞などによると、吉田氏の時も閣議決定のみで国会での議論を経ていないが、反対を表明したのは共産党だけだった。学校での半休措置やテレビの放送変更に一部の団体から抗議があった程度だ。ただ、翌年の衆議院決算委員会で日本社会党の議員が「(吉田氏の)功罪につきましては見る人、立場によっていろいろ観点が変わる」「そのときの内閣の思いつきによってやられるということには賛成しかねる」と指摘している。
 吉田氏の国葬を推し進めた佐藤栄作元首相が1975年に死去した際も、国葬とする議論が一部にあった。しかし「わが国には国葬の制度はない」といった野党の大きな反発を受けた結果、内閣と自民党、国民有志で主催し、費用の一部を国費負担とする「国民葬」に落ち着いたという経緯がある。1980年の大平正芳元首相の葬儀は主催者に国民を含まない内閣・自民党合同葬とされ、これ以降は原則としてこの形式が踏襲されている。

故吉田茂氏の国葬全景。弔辞を読む佐藤栄作首相(国葬委員長)=1967年10月31日、日本武道館

 ▽山本五十六の国葬、戦意高揚に一役

 「国葬は時代の要請とともに不要になり、消えていったもの。まさかこんなことになるとは」。国葬の歴史に詳しい中央大文学部の宮間純一教授(日本近代史)は、今回の流れに驚きを隠さない。
 戦前、国葬は「国家に偉勲ある者」に対し「特旨(天皇の特別なおぼしめし)により賜う」と定められていた。宮間氏によると国葬は、明治政府が日本を国家としてまとめる中で、国や天皇に尽くした人物を「ならうべき道徳的規範」として示す役割を果たした。死の政治的利用は戦時中も続き、山本五十六が1943年に戦死した際は盛大な国葬が催され、戦意高揚に一役買うことになった。

1943年6月5日、山本五十六の国葬が東京・日比谷公園で行われた。連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮し、快進撃で英雄に。4月18日、ソロモン諸島の前線を視察中、上空で待ち伏せした米軍機が搭乗機を撃墜し戦死。1カ月間秘匿された後、盛大な葬儀が行われた

 宮間氏は、国葬が「戦前・戦中期に(全体主義的な流れを強める)危険な装置として働いたものであるのは間違いない」と指摘し、対象者の基準などを明確に定めないまま制度が復活することを危ぶむ。「今は自由に反対意見が言えるが、これから先、そういう時代じゃなくなっていく可能性もあり得る。その時に国葬がまた悪用されかねない。この制度を曖昧な状態で生かしておくのは非常に危険だ」

 ▽容認野党も国会での議論を要求

 吉田氏の時と同様に、今回も野党の反応は割れた。7月22日の閣議決定を受けて立憲民主、共産、れいわ新選組、社民各党は反対を表明。一方で、日本維新の会と国民民主党は容認する考えを示した。ただ、維新、国民両党も無条件で賛同しているわけではなく、国会で議論した上で法的根拠や定義を明示するよう与党に求めている。
 岸田首相は安倍氏を国葬とする理由について(1)憲政史上最長の8年8カ月にわたり首相の重責を担った(2)国際社会から高い評価を受けている(3)民主主義の根幹である選挙中の蛮行で逝去し、国内外から追悼の意が寄せられている―と記者会見で説明しただけで、是非を国会に諮ることなく実施を決めた。自民党幹部は「外国要人が弔問する場をつくる意義は大きい」と必要性を強調するが、大平氏などの合同葬にも各国首脳が多数参列しており、あえて国葬に「格上げ」する必要性は乏しい。

故大平正芳首相の「内閣・自民党合同葬」に参列した(左から)米国のカーター大統領、マスキー国務長官、マンスフィールド駐日大使。故大平首相は、衆参ダブル選挙戦の最中、心筋梗塞による急性心不全で急死した=1980年7月9日、東京・北の丸公園の日本武道館

 宮間氏は「国葬は根本的に民主主義と反する。実施するなら歴史的な検証を行った上で、国民の代表である国会で必要性を議論し、現代にふさわしい在り方に改めるべきだ」と訴える。

 ▽「国民に喪に服することは求めない」も、広がる混乱

 当日の国民の対応も議論が必要だ。国葬令は「廃朝シ国民喪ヲ服ス」と定めていたが、現在は規定がない。吉田氏の国葬の際、政府は官公庁や公立学校で弔旗掲揚、黙とう、可能な範囲で半休措置などを実施し、民間に対しても同様の方法で弔意を表明するよう要望した。一方、佐藤氏の国民葬以降は弔旗掲揚と黙とうの実施(国民に対しては協力を要請)にとどまっている。

戦後に失効した国葬令

 今回も政府は「国民一人一人に喪に服することを求めるものではない」との姿勢だが、職場や学校で半強制的に弔旗掲揚や黙とうが行われる可能性もある。現に、北海道帯広市教育委員会が安倍氏の葬儀が行われた7月12日、市内の全小中学校に国旗の半旗掲揚を要請していたことが明らかになり、波紋を呼んでいる。
 国葬の中止を求めて複数の自治体に脅迫メールが届くなど、世間では混乱が広がり始めている。55年の時を経てよみがえる国葬は、人々に何をもたらすのだろうか。

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