【特別寄稿】パチンコ産業の歴史⑤「高度成長期とパチンコ産業の変革」(WEB版)/鈴木政博

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味において「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。
※この原稿は2010年8月号に掲載していた「パチンコ産業の歴史⑤」を一部加筆・修正したものです。

1. 第2期黄金時代から高度経済成長期へ
前号はパチスロの誕生を焦点に書いた。今回は時間軸を少し戻し、6月号で書いた「チューリップの誕生」以降についての「ぱちんこ」を主に記したい。

1959年に施行された「風俗営業取締法の一部改正による風俗営業等取締法」。ここから「ぱちんこ」は正式に風営法7号営業となり、1964年には、この風俗営業等取締法も一部が改正。1ヶ月だった許可期間が3ヶ月更新に、一回の遊技料金は20円から50円に、景品単価の最高限度額が300円に、そして18歳未満のパチンコ店への入場が禁止になった。ここからパチンコは「大人の遊び」となる。そして1966年、遊技機基準の緩和により36種類の役物使用が正式に認可。これによりチューリップは全国的に普及、各地で爆発的な人気を博し「第2期黄金時代」の幕が開けるまでの流れは6月号で前述した。

1960年代といえば、時代はまさに「高度経済成長期」であり、これに習うようにパチンコも進化を遂げていった。また池田内閣が「10年間で国民の月給が2倍になる」という「所得倍増計画」構想を公約し、実行に移していた時期でもある。これに合わせ、パチンコの射幸性も変化を遂げていく。

まずは遊技機の外観の変化だ。1964年に平和から登場した「ユニパック」は、これまでのパチンコの概念を変えた。それまで遊技台は全てが木製で、盤面から枠までが完全一体型であった。これを台枠と本体をプラスチック、木製と分けることにより、分離することを可能にした。さらにこの「ユニパック」が進化し、1971年に発表された「救世号」は、盤面のみが分離できるものであった。この発明により、現在でも行われている「セル替え」という入替が可能となったのだ。

平和「救世号」 盤面のみが分離できる画期的な発明だった。

さらに外観面はもちろん、射幸性の面でも大きく影響する出来事があった。 法改正により「上皿搭載」が標準になったのだ。つまり連発式の復活である。1969年に、遊技機の新基準が決まった。内容は以下の二つだ。

1.発射装置は手動式でその発射速度は性能上1分間100発以内であること。
2.賞品球の出玉は1回15個以下であること。

1955年に禁止されて以来、賞球15個、1分間に100発以内の発射という条件付ではあるが、14年ぶりに連発式が許可されることとなった。ちなみにこの「賞球15個」「一分間に100発」は、ご承知の通り2022年現在まで続いている規則である。既に50年以上、変っていないルールだ。

この新基準により「上皿」が復活した。連発式禁止以降、これまでは「上皿が搭載されておらず、手で一個ずつ玉を投入して発射するもの(一式)」 であるか、もしくは上皿が付いているものに関しては「発射された玉がアウトかセーフかを確認した後でないと次の玉を発射できない仕組みも有するもの(二式)」、または「一分間に30発以内の遊技球しか発射することができないもの(三式)」しか認可されていなかった。これが、一分間に100発以内であれば上皿を搭載できるようになった。これは、熟練者でも一式だと一分間に50発程度が上限で、二式、三式であれば30発程度しか発射できなかったものが、初級者にも一分間に100発が発射できるようになったことで客層の裾野を広げた。女性ファンも急増したといわれる。

さらに高度経済成長の真っ只中にあって、パチンコの射幸性も世間の成長に合わせるように上昇していく。1969年、連発式の許可とともに、景品上限額も500円となった。二年後の1971年には一回の遊技料金が50円から100円になり、100円硬貨で玉貸機から玉を借りられるようになる。さらに翌1972年には貸玉料金が値上げ。実に1949年以来、23年ぶりに、貸玉料金が2円から3円となった。さらに翌年、1973年には景品上限額が1,000円まで引き上げられる。しかし、これ以上にパチンコに革命的な変化をもたらしたものがあった。「電動式遊技機」の登場である。

2. 「電動式遊技機」の登場
1972年、警察庁が「一分間に100発、賞球15個」の遊技機基準の範囲内という条件付ではあるものの、電動式遊技機の認可を通達した。過去1953年に登場した「モーターパチンコ」も電動式遊技機ではあったが、こちらは一分間に200発もの発射がなされるものであり、連発式禁止の引き金になった遊技機といわれている。また、この「モーターパチンコ」は、電動式ではあるもののスイッチを入れると勝手に玉が発射される原始的な仕組みのもので、ストローク調整を遊技者が行えないという「技術介入性のなさ」も問題となった経緯がある。

そこで開発されたのが、現在のようなハンドルを回すことにより発射され、回す角度によって打ち出しストロークも変化するものであった。この構造により、手打ち台と同じく、遊技者の技術介入性の余地を残すことに成功。現在でもハンドル固定は厳しく言われているが、このような経緯で認可されたものであることを考えれば納得がいく。

しかし当時は、上級者、熟練者ほど「電動式遊技機」 への拒否反応は強く、しばらくは手打ちと電動の両方が設置され、住み分けがなされていたようだ。 また過渡期には、手打ちと電動ハンドルの両方が付いた遊技機も発売されている。ただし便利さや楽さ、初心者でも楽しみやすいという点から、電動式遊技機は次第に浸透していった。

3. インベーダーゲームによる業界打撃
1975年。アースマラソンで有名な「間寛平」の歌う「ひらけ!チューリップ」が100万枚を超える大ヒットとなった。まさにパチンコが第2期黄金時代を極めた出来事であり、それほどパチンコは社会に定着していたことを示す好例といえる。世間はボウリングブームの終焉で、郊外にパチンコ店が次々と出店しており、この年、ついにホール軒数は10,000店舗を超えた。 パチンコファン人口も3,000万人と言われ、まさにブームの頂点を謳歌していた。そんな時だった。1978年、 タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが空前の大ブームを巻き起こすことになる。

昭和51年当時の㈱平和の雑誌広告。100万枚を超える大ヒットとなった「ひらけ!チューリップ」を歌う間寛平さんをモデルに起用した。

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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