16、17世紀の長崎、深く重層的に スペイン現存の史料を長年研究 長崎純心大・滝澤修身教授 イエズス会だけでない日本布教の歴史

「歴史は一つの側面だけでなく、当時実際にあった、どんな小さなものにも目を通すことでより重層性と深みが出てくる」と語る滝澤教授=長崎市三ツ山町、長崎純心大

 長崎純心大の滝澤修身教授(53)は、スペインに現存する16、17世紀の日本の教会関係史料などを長年研究している。長崎で1571年の開港に始まるキリシタンの時代は、イエズス会のポルトガル人が布教していたイメージが強いが、多くのスペイン語文献を読み解くと、これまで以上にスペイン系修道士らの存在が現れてくるという。
 滝澤教授は長野県安曇野市出身。スペインのマドリード・コンプルテンセ大で同国の中世史を学び、指導教官に勧められて同国にある日本関係の古文書の研究を始めた。スペインの古文書館や修道院には、イエズス会や托鉢修道会の宣教師らが書き残した多くの書簡や本が保管されていた。
 12年の滞在を終えて2011年に帰国。その後来崎し、長崎の視点でそれらの史料を研究する重要性に改めて気づいた。「これまでのキリシタン研究では、膨大なポルトガルやイタリアの史料を扱う研究者が多く、スペインにあるものはあまり研究が進んでいない」
 帰国後もコロナ禍以前は同国を度々訪れるなどして研究を続けている。史料は主に16、17世紀の、日本からスペインに流れたイエズス会関係の史料や、スペインの托鉢修道会に残る古文書。
 イエズス会の本部はイタリアにあり、イエズス会の日本布教を支援したのはポルトガルだが、なぜスペインにもイエズス会の史料があるのか-。
 滝澤教授によると、1587年以降、日本で豊臣秀吉によるキリシタン迫害が始まると、国内にあったイエズス会の保管文書は没収されないよう当時のポルトガル領マカオの修道院に移送。1724年にはマカオで日本関係のイエズス会史料の編さんが始まった。
 しかし18世紀半ばからポルトガル政府がイエズス会を弾圧。マカオにもその知らせが伝わると、史料の保管を担っていたイエズス会士が当時のスペイン領マニラ在住の友人に保管を依頼し、マニラへ移送されることになった。その後スペインでもイエズス会が弾圧され、政府が同会の財産を没収。マニラの史料もマドリードへ運ばれたという。
 これらはイエズス会士が作成した日本年報などで、ポルトガル語やイタリア語のほか、スペイン語で長崎のまちの様子が書かれているものもあった。「同じ内容の文書でも、書かれた言語によって記述や表現に微妙な違いがある。そういう違いに注目することで歴史を正しく理解することにつながる」
 スペインの托鉢修道会の史料は、17世紀初頭~1630年代に日本で布教したフランシスコ会やドミニコ会、アウグスティーノ会が書き残したもので、禁教期に日本に入った神父らの殉教や迫害の様子を伝える内容が多い。同国各地に点在し、あまり研究が進んでいないという。
 「禁教期に入ってきたスペイン系の修道士たちの中には、殉教のために渡ってきた人たちもいる。イエズス会の歴史だけをたどるとどうしても単調になる。スペイン系と共に考えることで、両者の対立関係や信者獲得の違い、スペイン、ポルトガルの国際関係などが複雑に絡み合い、長崎の歴史がより重層的で深いものになる」と語る。
 滝澤教授がこれまでの研究成果を紹介する全5回の講座「市民セミナリヨ 長崎のキリシタンとバチカン」が開講中。6日には第2回「支倉使節とバチカン~長崎三ツ山の松尾大源~」がある。午後1時半から、長崎市平和町の浦上キリシタン資料館。各回500円。問い合わせはアジェンダNOVAながさきの林田愼一郎さん(電090.7923.7435)。

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