ジョー・エリオットがデフ・レパードの初期について語る

Photo: Ross Halfin

ミュージシャンのキャリアにおいて、その成功を維持し続けているという観点から言えば、デフ・レパード(Def Leppard)と肩を並べるバンドは少ないだろう。

今でもそのエネルギッシュなライヴ・ショウで定期的にスタジアムを埋め尽くし、無敵さを誇るイギリス出身のデフ・レパードは、全世界で1億枚以上のレコード売り、2019年には神聖なるロックの殿堂入りを果たしている。バンドの最新5枚組ボックス『The Early Years 79-81』を掘り下げれば、彼らがどのようにして出世街道への第一歩を踏み出し、ロックの最高峰へと登り始めたのかがおわかりいただけるだろう。

NWOBHMの先導者

デフ・レパードのファースト・アルバム『On Through The Night』とセカンド・アルバム『High’n’Dry』の最新リマスターに加え、BBCラジオ1のセッション、1980年のUKツアーから、オックスフォードのニュー・シアターで行なった衝撃的な未発表ライヴ・コンサート等、希少な音源を多数収めた『The Early Years 79-81』は、ファンにとっては宝の山だ。

この作品のトラックリストは、結成まもないデフ・レパードが忠実なファンベースを築き始め、イギリスで巻き起こった新たな草の根ムーヴメント“ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・へヴィメタル(NWOBHM)”の先導者のひとつと見なされていた1979年まで我々を連れ戻してくれる。

通常、New Wave Of British Heavy Metalは短縮して“NWOBHM”と表現される。この用語は、イギリスのロック週刊誌“サウンズ”の1979年5月号に掲載された記事の中で、音楽ジャーナリストのジェフ・バートンによって最初に使われた。70年代後半、パンクの勢いが衰え始め、新しい音楽スタイルが多数出現し始めていた時代に、新しいタイプのへヴィ・メタル・バンドを表現しようとジェフ・バートンが生み出したものだった。

NWOBHMは多くのハード・ロックやメタル・バンドを輩出したが、長期間活動できたバンドはほんのひと握りだった。この頃に名乗りを上げたバンドで、世界的なスターにまで伸し上がったのは、アイアン・メイデンとデフ・レパードだけだったが、ダイアモンド・ヘッドやヴェノム等、アンダーグラウンドで活躍を続け、後にメタリカやメガデスといった輝かしいメタル・バンドが、彼らに影響を与えた存在として、その名を挙げた同時代バンドもいくつか存在する。

Photo: Ross Halfin

「何一つとして俺たちにはピンとこない」

「あれから何十年も経っているのに、イギリスのメディアはいまだに俺たちをNWOBHMの中に入れたがるし、アメリカのメディアはいまだに俺達を“ヘア・メタル”バンドに分類しようとしているけど、俺たちには全くピンときていない。なぜなら、俺たちは一つの独立したバンドとして歩んできたからだよ」とデフ・レパードのヴォーカリスト、ジョー・エリオットはuDiscoverに語ってくれた。

「実際のところ、NWOBHMにカテゴライズされたバンドの中で生き残ったと言えるのは、俺たちとアイアン・メイデンぐらいで、この二つのバンドはまるで異なるバンドだ。デフ・レパードがこうして今もスタジアムでショウをして、ロックの殿堂入りを果たすことができたのは、俺達が特定のムーヴメントに属していたからではなく、俺達が俺達だったからに違いない」

とは言え、デフ・レパードとNWOBHMとの関連性は、彼らが将来有望なバンドだという評判を世に広めるのに一役買ったのは間違いない。デビュー前のライヴでの評判が急上昇し、BBCラジオ1のDJジョン・ピールの後援を得た彼らは、フォノグラム/ヴァーティゴとメジャー契約を交わし、1980年3月にデビュー・アルバム『On Through The Night』をリリースした。

「俺たちはお菓子屋にいるガキだった」

デフ・レパードは『On Through The Night』のセッションで、ブラック・サバスやジューダス・プリーストのプロデューサーとして知られるトム・アロムとタッグを組み、イングランド南東部バークシャーの農村地域にあるティッテンハースト・パークでレコーディングを行なった。

ティッテンハーストは、元々の所有者だったジョン・レノンが「Imagine」のミュージック・ビデオを撮影した場所として知られている。バンドが訪れた時には、ジョン・レノンからこの地を買い取ったリンゴ・スターがすでにロサンゼルスへと移住した後で、彼は自身の不在中に、スタジオ設備のある住宅として解放していた。

「素晴らしい経験だった。当時まだ10代後半だった俺たちは、シン・リジィやエルトン・ジョンが所属するレーベルと契約を交わし、俺はジョン・レノンが使っていた寝室を1ヶ月間あてがわれたんだ。あの頃の俺たちはお菓子屋にいるガキのようだったよ」とジョー・エリオットは静かに笑った。

「とにかく最高だった。俺たちはトム・アロムと一緒にジョン・レノンの庭を自転車で走り回ったり、赤ワインを飲みながら、豪華な食事をしたりしてたんだ。本当に夢のような時間だったよ」

楽しんでいながらも作業に取り掛かった彼らは、僅か1日足らずで全てのバッキング・トラックを録り終えたが、その後のオーバーダブには時間をかけ過ぎたと、ジョー・エリオットは明かしている。今振り返れば、『On Through The Night』は、きっちりと決められた時間内で制作した方がより良い作品になっていただろうと彼は感じているようだ。

「あの作品は本質的に、1979年当時の俺たちを表したドキュメントであり、ボストンやヴァン・ヘイレンのファースト・アルバムのような画期的なデビュー作では決してなかった。でも、俺たちにとっては最高の跳躍台になった作品だから、“On Through The Night”には深い愛情を持っているし、みんなトム・アロムとの仕事を凄く楽しんでたよ。それでも(次作からの)マット・ランジとの作業は、まるで別物だった」

「彼以上の教師は他にはいない」

デフ・レパードの6人目の非公式メンバーとも言える、南アフリカ生まれのプロデューサー、ロバート・ジョン・”マット”・ランジは、後に彼らの代表作となる大ヒット・アルバム『Pyromania』及び『Hysteria』のプロデュースを手掛け、バンドの将来に多大な影響を与えることとなる。

彼が初めて手掛けたデフ・レパードのアルバムは、『The Early Years 79-81』にも収録されているセカンド・アルバム『High’n’Dry』だった。ジョー・エリオットは、マット・ランジこそバンドが求めていた人物だという確信があった。

「バンド・メンバーが彼のことを知ったきっかけは、AC/DCの“Highway To Hell”だったけど、俺はそれ以前から彼のことを知っていたんだ。俺は彼が手掛けたザ・モーターズとザ・ブームタウン・ラッツの仕事が大好きだったし、マットは将来ボブ・エズリンやロン・ネヴィソンのような存在になると確信していた。実は、マットに“On Through The Night”をプロデュースしてもらえないかと、(マネージャーの)ピーター・メンチを通して依頼したんだけど、その当時は現実しなかったんだ」

それでもピーター・メンチはマット・ランジを説得し、1980年、スタッフォードのビングリー・ホールで行われたAC/DCのライヴのサポートアクトを務めた際にデフ・レパードを観に来てもらった。そうして彼らのライヴに感銘を受けたマット・ランジは、デフ・レパードについて「非常に粗削りだが、間違いなくダイヤモンドだ」と断言し、『High’n’Dry』の最初のデモ音源を聴いた後、作品をプロデュースすることを決定した。

トム・アロムによる『On Through The Night』はゆったりとしたアプローチで制作されたのに対し、丹念な仕事をするマット・ランジは、プリプロダクションに何ヶ月も費やし、その過程で『High’n’Dry』の収録曲のほぼ全てを解体し、徹底的にアレンジし直していった。

「よりパワフル且つ大胆で、アレンジも格段に良くなっていた」

「マットにまず言われたのは、『“High’n’Dry”は基礎からひとつひとつ積み重ねていく作品にするつもりだから、自分達のアイデアに拘り過ぎないこと』だった。その価値はあったよ。アルバムが完成し、プレッシャーから解放され、聴き返してみた時、“On Through The Night”とは格が違うのが分かった。比較にならないほどだったよ」

「Let It Go」や「High’n’Dry (Saturday Night)」といったデフ・レパード初期の名曲に加え、MTV向きのバンド初の名バラード「Bringin’ On The Heartbreak」を収録した『High’n’Dry』は、シェフィールド出身の5人組にとって、これまでで最も充実した内容のアルバムになった。

全米、全英でTOP40入りを果たした今作は、その後アメリカでダブル・プラチナに輝き、デフ・レパードをロック界の最高峰バンドへと押し上げた、続く『Pyromania』(1983年)の礎を築くのに一役買った。

「俺たちは正しい方向へ進んでいた。“High’n’Dry”では、“On Through The Night”のメロディアスな要素は残しつつ、よりパワフル且つ大胆で、アレンジも格段に良くなっていた。それに俺はシンガーとして大きな成長を遂げたんだ。俺たちの音楽づくりを大きく変えた“High’n’Dry”での経験により、バンドの方向性が定まり、マットの存在はそこに大きく影響しているよ。彼は俺たちにとって教授のような存在で、俺たちは意欲的な生徒だった。彼以上の教師は他にはいないだろうね」と彼は締め括った。

Written By Tim Peacock

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