「ふう、あなたが先に死ぬんだね」アラブにたつ日の涙 樺美智子につながる美質 重信房子と遠山美枝子(3)

By 江刺昭子

明治大の学生時代の遠山美枝子

 半世紀前、赤軍派や赤軍派から分かれたグループが社会を揺るがす大事件を連続して起こした。重信房子と親友、遠山美枝子は、異なる立場でこれらの事件に関係し、遠山は短い生涯を断たれた。道が分かれるまでを追う。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
   ×   ×   ×
 1970年3月、赤軍派の9人が日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った。
 71年末には赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が合体して連合赤軍になり、72年1月から2月にかけて、群馬県の山岳ベースで同志12人を殺した。死者の1人が遠山美枝子である。
 この事件を起こし、警察に追われた5人が長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、銃撃戦の末、逮捕された。
 重信房子らが海外で結成した日本赤軍の3人が、イスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、約100人を死傷させたのが72年5月である。

1970年4月、解放され「よど号」から次々と降りる乗客=韓国・金浦空港(共同)

 重信や遠山がそれまで、仲間たちとわいわい騒ぎながら立て看板を作り、デモで声を張り上げていた頃は、牧歌的な時代だったといえる。69年になると、闘争の質が変わる。機動隊との武闘が激化するとともに、組織内の暴力にも歯止めが失われていく。内ゲバである。
 主張の違いを話し合って埋めていくのではなく、自説にこだわり、短絡的に暴力に走った。セクト間やセクト内の内ゲバで、100人以上が死んだとされる。革命の「敵」は権力なのに、なぜ革命を目指す者同士が殺し合うのか。理解不能に映るが、「支配の論理」が働いていると説明する人もいる。
 当時、2人が属したブント(共産主義者同盟)でも、より軍事性を強めたい関西グループと、主流派が対立した。2人は関西グループに誘われて、非公然活動に一歩踏み出す。
 69年1月は東大安田講堂占拠事件が社会を揺るがした。そして4月28日の沖縄返還闘争で大きな曲がり角を迎える。
 ブントは他のセクトと共に機動隊を突破して東京駅に向かい、線路を伝って新橋から銀座に出たが、鎮圧される。大勢の逮捕者を出した。
 この闘争で重信は、火炎ビンを運んだ疑いで初めて逮捕された。非公然活動に誘ったのは古参幹部、佐野茂樹だった。佐野は2020年1月に死去したが、佐野をしのぶ会に、重信はメッセージを送っている。
 「ふりかえってみると、私を革命への道に導いたのは、佐野さんのあの4・28闘争の軍事委員会への参加の誘いだったと思います」。佐野が転機をつくったことが分かる。教師になる夢を諦めたのも、この頃である。
 佐野は60年安保闘争に斃れた樺(かんば)美智子と神戸高校の同級生。「樺が思いを寄せた人」といわれている。私は、樺の生涯を調べ『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』(河出文庫)をまとめる中で、そのことを知った。

樺美智子

 明治大の重信や遠山をブントにオルグ(組織)したのは佐野である。ひたむきさ、誠実さを共通の美質とする樺と遠山は、佐野を通じて時空を超えてつながっていた。
 4月の沖縄闘争の評価を巡って、ブント内部が割れる。「敗北」と位置づけて、新しい戦術を主張したのが関西グループだった。そして、69年7月6日に事件が起きる。
 早朝、関西グループが主流派の幹部を襲って大けがをさせる。そのあと、中央大のグループが関西グループの幹部を拉致して、4人を中央大の校舎に閉じ込めた。
 2週間後、4人が差し入れられたロープを使って脱出しようとしたが、1人が4階から転落して死ぬ。内ゲバによる初めての死者とされ、発端の日付から「7・6事件」と呼ばれている。
 重信と遠山も連絡役で事件に関わり、重信は「この時から、あれよあれよという間に(略)お互いに『深入り』することになりました」と振り返っている。
 関西グループは「赤軍派」を結成。9月5日、東京・日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会に「ブント右派解体」を掲げ乱入した。ブントは分裂し、活動を共にしてきた者たちが赤軍派を選ぶかどうか、選択を迫られる。
 重信と遠山は赤軍派に加わり、彼女たちが所属した「現代思想研究会」約30人のうち10人も同じ道を選んだ。のちに多くの犠牲者を出すことになる。
 赤軍派は革命の道筋を次のように描いた。革命の前段階として武装蜂起する。そして海外の労働者国家に渡り、そこを根拠地にして世界革命を実現する―。壮大な夢だった。
 山梨県大菩薩峠で首相官邸占拠のための軍事訓練をしていた69年11月5日、警察に発見され、53人が逮捕された。壊滅的といわれたが、70年1月に開かれた政治集会には700人から800人が集まった。
 より過激な方針を出すほど人が集まる傾向があったという。
 この頃、遠山は赤軍派ナンバー2である高原浩之と結婚し、横浜市鶴見区のアパートで一緒に暮らしている。高原の秘書として、電話連絡や文書の作成などを手伝うとともに、彼の生活も支えた。
 遠山がのちに獄中の高原に宛てた手紙によると、秋には銃と爆弾で武装蜂起すると聞かされて、死を覚悟していたという。大菩薩峠の摘発で蜂起は不発に終わった。遠山は妊娠したが、活動を継続するために中絶している。
 70年6月、高原が「よど号ハイジャック事件」の共犯容疑で逮捕され、以後11年間、獄中生活を送ることになる。幹部がほとんど逮捕された赤軍派では、連合赤軍を主導することになる森恒夫が最高指導者に押し上げられた。
 重信は森と対立し、この頃は関西で海外根拠地を作る準備に専念し、遠山と顔を合わせることも少なくなっている。

明治大法学研究会の仲間と。前列左から2人目が遠山美枝子

 遠山は夫を塀の中に奪われ、重信とも会えない。それでも救援の責任者として、身柄拘束されている同志に歯ブラシやタオル、機関紙などを差し入れ、献身的に活動した。元活動家たちはいまも、遠山の行き届いた救援に感謝していると、口をそろえる。
 71年2月、重信は赤軍派を離脱して、アラブへ闘争の場を移した。旅立つ前、遠山は重信のアパートで荷造りを手伝いながら「ふうが先に死ぬんだね」と言って涙をぽろぽろこぼした。「ふう」は重信房子の愛称である。
 そして「どんなに大変でも、お互い闘い続けようね」と確認しあった。そのことが遠山を前のめりにさせたのではないかと、重信は後悔することになる。
 永遠の別れを詠んだ重信の歌を引く。
<「ふう、あなたが先に死ぬんだね」羽田で見送る君は泣き虫>
<振り向いて泣きそうな顔 懸命に笑顔に代える別れの君は>(続く)

重信房子と遠山美枝子(1)https://nordot.app/927070795949735936?c=39546741839462401

重信房子と遠山美枝子(2)https://nordot.app/927076095154192384?c=39546741839462401

重信房子と遠山美枝子(4)

https://nordot.app/927087534198374400?c=39546741839462401

© 一般社団法人共同通信社