重信房子と遠山美枝子(4)純粋な若者たちを追い込んだものは何か 「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ 

By 江刺昭子

70年に昼のワイドショーに出演した重信房子さん

 1971年2月末、重信房子は日本を去り、パレスチナに向かう。日本に残った親友・遠山美枝子はそれから1年足らずの1972年1月7日、群馬県榛名山で絶命した。遠山はなぜ山に入ったのか。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
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 70年3月のよど号ハイジャック事件のあと、重信と遠山の属する赤軍派の指導部は「PBM作戦」を指示している。
 P(ペガサス作戦)は要人を人質にして獄中の指導者を奪還し、中国に亡命して革命の根拠地とする。B(ブロンコ作戦)は、日米の政治中枢である霞ケ関とペンタゴン(米・国防総省)を占拠する同時多発テロ。M(マフィア作戦)は、金融機関を襲って革命資金を調達するというものだ。
 だが、実行できたのはM作戦だけだった。千葉、横浜などの郵便局や銀行支店を襲撃、計500万円以上を奪取した。
 過激な作戦についていけず、組織を離れていく者が続出する中で、遠山は赤軍派創設当初からのメンバーであり、最高幹部高原浩之の妻である。上下関係の規律の厳しい集団の中で、後輩の活動家からは、仰ぎ見るような存在になっている。

遠山美枝子。サークルの合宿で

 夫の高原は遠山を「思いつめたらそこから逃れられないタイプだった」と言う。組織が弱体化すればするほど、自分が頑張らねばと前を向いている。
 もともとは、警察署や拘置所をまわって逮捕された人に差し入れなどをする「救援」の責任者だったが、オルグ(組織拡大)や資金集めといった仕事も任されるようになっていく。
 横浜の実家にはめったに帰らず、友人の家を泊まり歩き、私服刑事の尾行がつくようになった。この頃、久しぶりに会った知人は、遠山の変化を見て取っている。
 「(学生運動の頃は)小柄で、お嬢さんタイプの子だったけれども、このとき会った彼女には、そんな弱いイメージはどこにもなく」「表情は厳しく、毅然(きぜん)としており、すっかり一人前の闘士に成長していた」
 一方、レバノンで活動する重信のもとには、パレスチナ解放のために闘うゲリラを描いた映画を撮りたいと、映画監督の若松孝二と足立正生が訪れている。
 完成した「赤軍―PFLP世界戦争宣言」には重信のインタビュー映像が使われ、71年秋から日本全国の大学や公民館で自主上映された。車体を赤く塗ったバスで移動しながらの上映運動で、遠山はその手伝いもしている。
 逮捕者や離脱者が相次ぎ、戦力の衰えを自覚する赤軍派指導部は、政治路線の異なる革命左派(京浜安保共闘)との合同を模索する。革命左派は略称で、日本共産党革命左派神奈川県委員会といい、毛沢東思想を信奉して武装闘争を展開。獄中の幹部を奪還するために、71年2月には栃木県真岡の銃砲店を襲い猟銃や銃弾を奪った。

森恒夫

 M作戦で資金は得たが武器がない赤軍派と、武器はあるが金がない革命左派の軍事組織が合体して連合赤軍になったのは71年末。赤軍派は森恒夫、革命左派は永田洋子(ひろこ)がリーダーだった。

永田洋子

 榛名山にアジト(山岳ベース)を築いて合宿し、軍事訓練をした。訓練の目標は「兵士の共産化」「銃による殲滅(せんめつ)戦」である。
 赤軍派から山に入った兵士のうち、女性は遠山だけだった。山に入る直前、彼女は獄中の夫に手紙を出し、それが遺稿となる。自らの闘争の過程に高原との関係を重ね合わせ、未来を切り開こうとする意志的な内容だった。
 「赤軍女性兵士として、内実を伴う兵士として、徹底的に自己改造していく方向が問われている」「赤軍兵士として未だ不充分な私であるが、(略)自分の核心を持ちえる主体としてかかわっていきたいと思っているし、全力でがんばっていきます」
 赤軍派の後輩活動家の数人から、遠山に一緒に山に行こうと誘われたが断ったと聞いた。このことからも、遠山が危険を予感していなかったことが分かる。
 兵士として自己改造するつもりで行った場所で、「総括」と呼ばれる厳しい自己批判を要求され、最後には殺されるとは思ってもみなかっただろう。山に入ってから逃げ出した者もいるのに、遠山はなぜ引き返さなかったのか。
 50年もたっているけれど、遠山の夫だった高原に聞かずにはいられなかった。赤軍派の最高指導者としてPBM作戦を指示している。無謀な計画ではなかったか。
 「僕自身、首相官邸占拠なんてできっこないと思っている。だけど引くに引けないんだ。前に進むしかないんだ」
 遠山の山岳ベース行きを察知していた。なぜ止めなかったのか。
 「そういう政治路線を共有して一緒になった以上、お互いにやめようと言えない。やめると言ったら離婚することになるから」
 走り始めたら止まれない、引き返せない。歴史をひもとけば、いつの時代にも、多くの組織で起きたことだ。世界に目をやれば、その悲劇はこの瞬間も繰り返されている。
 山岳ベース事件は、むごたらしいリンチや閉ざされた空間での異常心理が、興味本位に語られがちだ。だから事件から目を背ける人が多い。当事者は事件を封印して語りたがらない。
 しかし、遠山がそうであったように、いまもどこにでもいる若者たちが引き起こしたことだ。戦争に反対し、社会の不公正をなくしたい。真っすぐにそう望んだ若者たちが暴走した。
 純粋な若者たちをなぜ失わねばならなかったのか、考え続けなければならない。
 重信は痛切な思いで後悔し続けている。「私と一緒に遠山さんがいたら、絶対に行かなかった」「なぜ遠山さんをベイルートに呼ばなかったのか」(筆者の質問に対する獄中からの返信)
 2019年3月、遠山の命日に墓前にささげられた重信の「三月哀歌」から2首を引く。
 <抉られて鷲摑まれて千切れる胸 遠山美枝子あなたの死を聴く>
 <底無しの哀しみ怒り 三月の咆哮鎮める地中海は青>
 榛名山の軍事訓練には、途中で逃亡した者を含め29人が参加、約2カ月の間に12人が殺害された。(続く)

重信房子と遠山美枝子(1)https://nordot.app/927070795949735936?c=39546741839462401

重信房子と遠山美枝子(2)https://nordot.app/927076095154192384?c=39546741839462401

重信房子と遠山美枝子(3)

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