ウクライナから避難した19歳の女性、日本でファッション誌の表紙に 来日したモデル5人を支える小さな事務所、「200分の1」の自負

撮影現場に臨むカティアさん

 人気の女性ファッション誌「FUDGE」が、2カ月連続で同じ女性を起用した。モデルのカテリーナ・チェルニアブスカ(通称・カティア)さん。ロシアに侵攻され、戦火を逃れて日本にやってきたウクライナ人だ。同じ事務所に所属する女性4人も、3月下旬~4月にウクライナから来日。言葉も文化も異なり、身寄りもない環境ながら、あっという間にモデルとして活躍の場を広げた。5人を支えるのは、2人だけで経営する小さな事務所。彼女たちの日常と、父親代わりとなった事務所の奮闘を追った。(共同通信=帯向琢磨)

 ▽過酷だった日々

 東京外語大が4月に開いた、自治体や企業向けのウクライナ語講座。受講した約70人の参加者のうちの1人が、モデル事務所「WHAT management」共同代表の萩本博斗さん(30)だった。
 参加した理由を尋ねると「『ありがとう』や『ごめんなさい』だけでなく、少しでも話せるようになれば、本人たちともっとコミュニケーションが取れるから」と語る。取材を申し込むと、萩本さんとモデルの2人が応じてくれた。
 「ウクライナから来ました。モデルをしています。学校にも通っています」と、少したどたどしくも、しっかりとした発音であいさつしてくれたのは18歳のタティアナ・コマロワ(通称・テイティ)さん。もう1人が19歳のカティアさんだ。

カテリーナ・チェルニアブスカさん(右)と話すタティアナ・コマロワさん。ともに東京のモデル事務所に所属し、新たな生活を送っている=5月20日、東京都渋谷区

 2人にとって、来日前の日々は過酷そのもの。首都キーウ(キエフ)で暮らしていたテイティさんは「今日が最後の夜かもしれない」と恐怖を感じながら眠りに就く日々だった。ポーランドに避難する道中では、近くで銃撃戦が始まり、森の中に身を隠したこともあった。取材中に当時を思い出し、声を詰まらせた。
 カティアさんはウクライナの地下シェルターで過ごしていた。「朝起きると夢なのか現実なのか分からないような感じだった」。一緒に暮らす母親を1人残して国外に避難した。葛藤はあったが、美容師だった母の仕事がなくなり、家計を支えることにもなると考えて来日した。

 ▽赤字経営が続くが…

 WHAT社は昨年設立。萩本さんともう1人で経営している。米国、ロシア、ウクライナ、イタリアなど10カ国以上の海外のモデル事務所とネットワークを持ち、人材を派遣し合っている。テイティさんらはロシアの侵攻前から来日する方向で話が進んでいたが、侵攻後、話は一気にまとまった。
 萩本さんは当時の思いをこう振り返る。「日本はウクライナとの関係があまり深くない。つながりを持っている自分たちがやらなければいけないという、使命感のようなものがあった」
 

事務所が用意した部屋。テイティさんが他のモデルと暮らす

 新型コロナウイルス禍で雑誌が廃刊になるなど、業界は厳しく、赤字経営が続いている。それでも、事務所が5人の生活費や家賃を工面している。やりとりは英語でしており、複雑な行政手続きは全て萩本さんらが代行。5人は異国でさまざまな困難に直面しており、助けを求める連絡は深夜や休日も来る。心が安まらない毎日だ。
 一方で、戦火にまみれる祖国を案じつつ、新たな環境で前向きに生きる彼女らの姿は、萩本さんらにとって何よりの励みにもなっている。
 5人はオーディションや撮影に奔走し、少しずつ仕事も増えた。

 特に、カティアさんの活躍が今のところめざましい。FUDGEの表紙に選ばれると、萩本さんは「ウクライナ出身ということで選んでもらったのかもしれないけど、そうそうあることではない」と興奮気味に快挙を喜んだ。

 ▽「第二の故郷」に

 5月下旬、カティアさんの仕事現場を訪ねた。この日は、美容専門学校の授業で製作されるポスターの撮影。

撮影現場に臨むカティアさん

 「その感じ良いよ」「もう少し角度を変えてみようか」
 スタッフの指示を受けながら、1枚1枚表情やポーズを変える。時折、萩本さんの方を向いては「順調だよ」と言わんばかりに笑顔を見せた。
 日々の出来事は、ウクライナに残る母親や恋人にテレビ電話で報告している。お互いに暗くならないよう、あえて戦闘の話題には触れない。母親も日本に来てもらうよう準備を進めている。 

 

ノートに書き込んで日本語を勉強するテイティさん

一方、テイティさんはプライベートを充実させている。日本の生活にもすっかりなじんだ。閉店間際のスーパーで、値引きされた弁当を買うのもお手の物。日本語学校に通い、簡単なあいさつはもちろん、読み書きもめきめき上達している。通い始めて1カ月で漢字を書くこともできるようになった。
 テイティさんのモチベーションは、自分の“武器”を増やすこと。「いつまでモデルを続けられるか分からないから」

 週末は1時間電車を乗り継いで、自分で探したバレーボールクラブの練習に通う。日本語が話せないせいか、いくつかのチームに断られ、行き着いたのが「松戸ダイヤモンド」(千葉県松戸市)。代表の本多洋祐さん(34)は「やりたいと言って来る人を拒む理由はなかった」と振り返る。
 

バレーボールのチームメイトと談笑するテイティさん

 初めての練習では、ユニホームにローマ字読みの名前を書いたガムテープを貼り、コミュニケーションを図った。チームメイトと談笑するようにもなり、仕事以外でもやりがいを見つけたという。
 本多さんは「特別なんだろうけど、特別扱いしないよう心がけている」と話す。テイティさんもそれが心地良さそうだ。
 モデルの仕事、日本語の習得、バレーボールの練習とやりたいことが多すぎ、戦闘が終わった後もしばらく日本にいたいという。
 「せっかく日本に来たからには、できることを最大限やりたい。日本は第二の故郷です」

 ▽新たな課題も

 しかし、日本での生活には「壁」を感じることも多い。6~7月には新たな課題に直面した。ビザの更新だ。
 政府はウクライナの避難民に対し、「短期滞在」(90日)の在留資格から、就労が可能な「特定活動」(1年)への変更を認めると明らかにしている。だが、興行ビザで入国した5人が特定活動への切り替えを申請したところ、認められなかった。

ウクライナから来日したモデル5人。両端は事務所の2人

 やむを得ず延長を申請したが、認められた期間は3カ月だけ。これだと銀行口座もつくれず、不便な生活が続く。萩本さんは嘆いた。「自分たちが手を出したがために、かえって彼女たちに困難を強いてしまっているのがつらい」
 それでも親代わりの生活は続く。「見回りのために彼女たちの自宅に行ったら、『いきなり来ないで』と怒られました。本当に年頃の娘とお父さんの関係みたいで、戸惑うことも多いけど、くじけずやっていくしかないかな」と笑う。
 活動の支えになっているのは「自分たちだからこそできる」という自負だ。「たった2人でやっている会社が、日本全体で受け入れる避難民の200分の1を背負っている。これってすごいことだと思うんです。でも、自分たちだけでは限界がある。他に続いてくれる人がいないといけないと思います」
 5人はこの先も輝き続けることができるのか。萩本さんたちとの二人三脚は、まだまだ始まったばかりだ。

© 一般社団法人共同通信社