連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第21話

    いよいよサントス港に上陸

 一九五五年九月十五日、私は二十才と十一ヶ月。私もいよいよその日が来たなーと身の引き締まる思いがした。サントスの港も入り江から奥が深く船は静かに港に近づいて行く。何番埠頭だったか覚えていないけど、船は横付けになり、タラップが降ろされた。あまりにも慌しく、その時の小さな事は良く覚えていないけど、多分四十三日間、お世話になった船長以下乗組員へのお礼。そして今日から離れ離れに散って行く家族移住者達との別れの挨拶。私達、単独青年は山中弘さんの指示に従い、団体行動である。長かった、でも楽しかった船旅に別れを告げ、皆、タラップを降りて行く。入国検査を終えて待機していた数台のバスに乗り込む。私の荷物は小さなトランク一個なので余り気を使わずに済んだけど、仲間には大きな荷物を三個以上持参している物もいて、いろいろ気配りが大変な様だった。
 バスは列になり、夕暮れの峻険な海岸山脈を登って行く。
 サンパウロ市の夜景は街灯がまぶしい程明るかった。その街路を通り抜け、静かなコチア産業組合のモインニョ・ベーリョ試験場に着いたのは多分、夜の十時頃ではなかっただろうか。寒い夜であった。皆の職員は寝ずに待っていてくれた。その中にねずみ色のオーバーをまとったコチア組合専務の下元健吉さんがいた。皆がバスから降り、荷物の整理が済むと食堂に集まり、夕食になる。そこで下元さんの挨拶があり、今夜は遅いのでまた明日来るからと。そして皆、疲れているから早くお休みと言って帰って行った。そこで私達はブラジルでの第一夜の眠りに就いたのであった。
 次の日から、各自それぞれの農場に配耕される日までの数日間、ブラジルで生活するための心の準備を指導される事になった。
 第一日目に下元健吉さんの講話があった。彼の話の内容は次の様なものであった。《昔、日本のある国の殿様が自分の息子の若殿に西洋の進んだ医学を学ばせようと何年間かの留学をさせる事になった。そして、その若殿には一人の付き添いが同行する事になった。西洋もオランダに渡った若殿は懸命に勉強して、数包みの書き物が出来た。やがて帰国の日が来て日本へ帰る途中、船が嵐に合い、積んでいた書物はみな海に流された。何とか命だけは助かり、日本にたどり着くことが出来た。でも、書類が海に流されては病院は開業できない。途方にくれている時、その付き添いが力んで言ったものである。「若殿、心配しないで、病院を開業しましょう。私はあまり字は読めませんが、オランダの病院での実際の手術などをよく見てきました。若殿の足りない処を私が手助けしますので頑張りましょう」そして、病院は開業しこの二人して立派に人の為になったとさ》。

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