「ZIGGY」の栄光とどん底 元メンバーが語った「お茶の間ロックでなにが悪い?」

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大ヒット曲「GLORIA」が収録されたセカンドアルバム「HOT LIPS」(88年)のCDジャケット 一番左にいるのが大山正篤

絶頂期の活動休止、マスコミに送った「休暇届け」の真相

1988年の大ヒット曲「GLORIA」で一躍スターダムに躍り出たロックバンド「ZIGGY」の元メンバーでドラム奏者の大山正篤。ZIGGY脱退後はプロデューサーやドラム講師、さらに心理カウンセラーとしての顔を持つ異色のミュージシャンに波乱の半生を振り返ってもらう3回シリーズ。2回目は、ZIGGYの絶頂期、そして直後に起こった突然の活動休止、メンバーの脱退についてその真相を明かした。(取材・文=福嶋剛)

前回のインタビューでは、大学進学と同時に上京して同じ大学の先輩の戸城憲夫くんと出会い、一緒にバンドを組んだらライブの客に森重樹一くんがいて、彼のバンド「ZIGGY」と対バンをしたら戸城くんがZIGGYに参加し、ほどなくして僕、その後に松尾宗仁くんが参加してZIGGYの第一期のメンバー4人がそろったところまで話したので、今回はそれからを振り返っていきます。

ほとんどのみなさんがZIGGYを知ったのは「GLORIA」という曲からだと思いますので、まずはその頃の話をしたいと思います。この曲は実はデビュー前からやっていた曲なんですが、メジャー・ファーストアルバム「ZIGGY」(1987年)には収録していなくて、セカンドアルバム「HOTLIPS」(88年)に持ってきたんです。

その頃はZIGGYも大きな会場でライブをやっていたのでさらに調子に乗って、メンバーの中で一番年下だった僕が「ロックバンドがシングルだなんてダサいし、タイアップなんかダメだよ」と偉そうに言っていたんですが、レコード会社のディレクターに「まあまあ」となだめられて。そしたら「GLORIAが月9のドラマタイアップを獲れた」って(1989年、フジテレビ系テレビドラマ「同・級・生」の主題歌)ものすごいことになって(笑)。

そんなレコード会社さんの頑張りでバンドもさらに大きくなって、渋谷公会堂から日本武道館までの道のりはあっという間でした。テレビやラジオにもたくさん出演させてもらい、硬派な連中からは「お茶の間ロック」と冷やかされました。でも振り返ってみると正直みんなそういう状況を楽しんでいたと思います。なにせ4人が4人ともミーハーでしたから。当時人気の洋楽バンドが着ていたカッコイイ衣装を見つけたらすぐにその格好を真似てみたり、そもそもの動機が「モテたい」だったのでお茶の間に進出できてうれしかったと思います。硬派なロック雑誌の取材では「俺たちは産業ロックとか世間の流れには絶対に流されないぜ」みたいなカッコいいせりふでキメた後、レコード会社の人が「次の取材は『明星』さんでーす」みたいな(笑)。

その頃は曲を作って、録音して、リリースして、全国を回っている間に次の曲のネタを仕込んでみたいなルーティンでとにかく忙しすぎて、毎日どこで何をしているのかよく分からない感じでしたね。ライブの移動も車から新幹線や飛行機になり、意外と地方のコンサートホールって駅の近くにあって形も似ているから、今日どこで演奏しているのか分からなくなってしまうんです。そんなとき、森重くんが名古屋の会場で「行くぜ京都!」って叫んでしまい、すぐに僕が「ここは名古屋なんだよねえ~」みたいなツッコミで笑いを誘ってごまかすみたいな。ハラハラドキドキでした(笑)。それ以来、森重くんの目の前のモニターに「今日の会場は○○です」という表示が出るようになりました(笑)。

そんなルーティンを続けていってメンバーの疲れがピークに達してしまい、中野にあったスタジオで次のアルバムのレコーディング中だったんですが、森重くんとロビーで立ち話をしているときに「ちょっと疲れてきたよね。半年でもいいから一旦休憩してみるっていうのはどう?」って言いました。というのも森重くんが一番辛そうだったので、このままだと心配だったんです。そしたら森重くんが「そうだね」って返してくれたので、ほかの2人に話をしたら松尾くんも「俺もちょっと休みたいな」、戸城くんは「どっちでもいいよ」と。じゃあ事務所に相談しようとなって打診してみたらすんなりOKをもらえて1年間休暇をもらったんです。それがマスコミ各社に送った「休暇届」の真相です。

きっと事務所としてはリフレッシュさせることでさらに次のZIGGYに期待していたと思うんですよ。それがまったく裏目に出ちゃったんです。休んだことでメンバーそれぞれの音楽に対する未来予想図がバラバラになっていて、バンドとして大きなズレが生じてしまったんです。決してメンバー同士の仲が悪くなったり、いがみ合ったりとか、そういうことは何ひとつなかったんです。今でも何かあれば普通にみんなと連絡を取りますから。

確かに「お茶の間ロックはどうなんだろう?」みたいな思いはありました。当時はまだ30代になったばかりでしたから「もっと原点のブルージーなロックをやりたい」とか、「いや俺は大人のロックをやりたいんだ」とか「俺は今の方向性をもっと突き詰めたい」とかね。4人の意見の相違が出てきたんです。

僕自身は当時のZIGGYの良さというはハードポップスだと思っていたんです。活動休止前にリリースしてオリコン初登場1位を記録した4枚目のアルバム「KOOL KIZZ」(90年)がそれを見事に反映していて、個人的にはお気に入りの一枚です。だから次はそれを発展させたような洋楽ロックが根底に流れるポップな作品を想像していたんですが、休みから戻ってきたら「やっぱりビートルズだよね」みたいな感じになってしまい。その後に作った5枚目のアルバム「YELLOW POP」(92年)は、「本当にこれで良いのか?」みたいな僕たちにとっては混沌とした作品になりました。

それでどうしても音楽的に合わなくなってしまいZIGGYを抜けたんです。よくメンバー脱退のニュースで「メンバー間で音楽的な方向性が合わなくなり……」って書いてありますけど、だいたいそんな感じだと思います。本当に仲が悪くなってしまう人もいますが、基本的にはお互いにプロなのでそれぞれのこだわっている音楽に対する考え方がぶつかってしまうことが原因なんですね。

大山正篤【写真:ENCOUNT編集部】

絶頂期の活動休止、大山正篤が当時を語る

それからのZIGGYはメンバーを入れ替えて活動したり、ほかのメンバーも復帰したり、いろいろとありました。実は僕だけ脱退してから一度もZIGGYに戻っていないんです。その理由は、個人的にビジネス的な再結成はしたくないという思いが根底にあるからなんです。やっぱり4人でワイワイ言いながらデビューしたバンドですし、今でもみんな仲が悪いわけじゃないので、4人で決めてやるなら構わないんですけど、先にビジネスありきで周りが動いてしまうのは、どうしても個人的に抵抗があるんです。あくまで僕の個人的な意見ですけど。

その後「Shammon」というロックユニットでふたたびメジャーデビューしましたが鳴かず飛ばずで(苦笑)。それから音楽活動と並行して音楽学校でドラムの講師を務めることになりました。中学生の頃、吹奏楽部の部長として期待されながら北海道大会で優勝を逃した挫折がトラウマのように心に残っていたんですが、ここでようやくあの頃の自分と向き合って克服することができました。

昔はZIGGYにあこがれてレッスンを受ける生徒さんも多かったんですが、今は「お母さんがCD持ってるから」という子ども世代に教えています。今の若い人と触れ合う機会は僕にとっても新鮮で新しい音楽を知ったり、彼らの好きなカルチャーを理解したり、いろんな意味で僕の学びにもなっているんです。

そして久しぶりに「Shammon」として24日にニューシングル「ゆりかご」をリリースします。また19日に渋谷のclubasiaというライブハウスでワンマンライブを開催します。CDも先行販売しますのでよかったら大山がドラムを叩く姿を見にきてやってください。

そういえばこの前、キッスのベーシストのジーン・シモンズさんがどこかのメディアで「ロックはもう死んだ」なんて言ったことが一時期ニュースになっていましたが、そもそもロックなんていうのは売れるための音楽じゃなかったからアンダーグラウンドでやっていたわけでね。僕たちだってもともと日本でロックが売れていない時代に活動を始めましたから。たまたま「お茶の間ロック」になりましたけど、ロックが昔に戻っただけの話じゃないのかなって思っていますね。

□大山正篤(おおやま・まさのり)1964年、北海道釧路市出身。ドラマー、音楽講師、心理カウンセラー。大学進学とともに上京、戸城憲夫らと「グラスデッドフリッカーズ」(後の「G.D.FLICKERS」)結成。1986年、「ZIGGY」に加入。翌87年デビュー。89年、「GLORIA」がオリコン3位の大ヒット。92年、ZIGGYを脱退。プロデューサー、楽曲提供など活動の幅を広げ、98年、「Sham-on」でふたたびメジャーデビュー。2003年、音楽講師としても活動をはじめる。19年、心理カウンセラーおよび上級心理カウンセラーの資格を取得。22年、「Shammon」再始動。8月19日渋谷「clubasia」でワンマンライブ「Shammon レコ発ワンマンショー in clubasia」を開催。シングルCD「ゆりかご」を24日発売。福嶋剛